中部太平洋の戦い
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「ワシントン (BB-56)」の記事における「中部太平洋の戦い」の解説
第三次ソロモン海戦は太平洋戦争の戦局の転換点となり、この海戦でワシントンとリー提督は米軍の勝利に貢献した。戦艦同士の砲撃戦が終わると、ワシントンは対空・対地砲撃に活躍するようになる。サウスダコタは修理のため本国に戻ったが、新鋭戦艦インディアナ(USS Indiana, BB-58)と修理を終えた戦艦ノースカロライナ (USS North Carolina, BB-55) および空母サラトガ(USS Saratoga, CV-3)が最前線に進出し、ワシントンとエンタープライズに合流した。ハルゼー提督の麾下艦船は、新鋭戦艦部隊、空母機動部隊(エンタープライズ隊、サラトガ隊)、巡洋艦部隊、護衛部隊に分割された。1943年(昭和18年)1月下旬のレンネル島沖海戦で、一式陸上攻撃機(ラバウル航空隊)の空襲で重巡シカゴ (USS Chicago, CA-29) が撃沈された。さらに第二艦隊(司令長官近藤信竹中将)がトラック泊地を出撃してきたので、ワシントンを含むアメリカ艦隊は、日本軍の新たな攻勢と艦隊決戦に備えた。しかし第二艦隊の行動は陽動であり、日本軍はガダルカナル島撤収作戦を発動してガ島から去っていった。 ワシントンは1943年(昭和18年)4月までソロモン諸島周辺で空母サラトガとエンタープライズを護衛し、以降も各地で空母任務部隊の護衛を行った。ワシントンは同年11月からギルバート・マーシャル諸島の戦いに参加、空母バンカー・ヒル(USS Bunker Hill, CV-17)、モンテレー (USS Monterey, CVL-26) の護衛をサウスダコタらと行っている。 1944年2月1日、クェゼリン環礁を空襲する空母と行動中だったワシントンは、戦艦インディアナと衝突事故を起こした。これは護衛の駆逐艦に給油を行おうとしたインディアナがワシントンの艦首を横切ったことで発生したものだった。ワシントンの艦首には約60mの亀裂が入り、大きな損傷を負ったワシントンはマジュロで応急修理を行った。当初、応急修理に30日間かかると見積もられていたにもかかわらず、24時間体制で修理を担当した工作艦ヴェスタルの作業隊はわずか10日間で完了させた。その後ワシントンは本格的な修理を受けるために真珠湾へ向かい仮艦首を設置、続いてワシントン州ブレマートンのピュージェット・サウンド海軍造船所で本格的な修理が行われた。 1944年6月のマリアナ沖海戦では撤退する日本艦隊の追撃命令がワシントンに下され、誰もが戦艦大和のことを噂したという。しかし大和との砲戦のチャンスはなかった。1944年9月にワシントンはその主砲でパラオのペリリュー州、アンガウル州に対する艦砲射撃を行い、10月10日には沖縄攻撃(十・十空襲)を行う空母部隊の支援を行った。11日から14日までルソン島北部および台湾に対する攻撃を行い、21日にはヴィサヤ諸島への空襲支援に参加している。レイテ沖海戦ではハルゼーの命令に従って小沢機動部隊を追撃し、大和との決戦を望んでいたワシントン将兵は落胆した。また小沢艦隊隷下の航空戦艦日向(第四航空戦隊司令官松田千秋少将)と姉妹艦伊勢まで42kmの地点まで接近していたが、アメリカ側戦艦部隊は南に引き返した。 1944年11月5日から1945年2月17日までワシントンは高速空母機動部隊の護衛として琉球諸島、台湾、ルソン島、カムラン湾、仏領インドシナのサイゴン、香港、広東、海南島、南西諸島、そして日本の首都である東京への空襲に参加した。1944年11月26日、駆逐艦ジェンキンスらと演習中だったワシントンの見張りが先に通過した魚雷2本の航跡を発見した。これは呂50が米機動部隊に対して発射した魚雷であることが戦後になってわかった。 1945年2月19日から22日までワシントンは硫黄島への上陸部隊支援として艦砲射撃を行った。その16インチ主砲と5インチ副砲による砲撃は硫黄島の地形を変えてしまうほどであったが、将兵は深く大規模に掘られた地下陣地に潜伏していたため、日本側の死傷者はわずかであった。続く2月23日から3月16日まで硫黄島での支援活動を行い、2月25日には東京に対する空襲を行う空母の護衛を行った。3月18日、3月19日および3月29日には本州の航空基地を含む重要拠点に対する空襲を行う空母部隊の護衛を務め、3月24日におよび4月19日には沖縄島の日本軍に対する砲撃を行っている。 絶え間なく続いた任務の後、1945年6月1日にレイテ島サンペドロ湾に錨泊したワシントンは6月6日にピュージェット・サウンド海軍工廠にむけて出航する。途中グアムと真珠湾に立ち寄り、ピュージェット・サウンドに到着したのは6月28日のことであった。 結局ワシントンは太平洋戦線の前線に再び参加することはなかった。ワシントンの最後の軍役は8月中旬の東京湾での活動及び9月2日の降伏調印式への参加であった。その後カリフォルニア州サンペドロで修理後の公試を行い、パナマ運河を通過して大西洋に戻る。10月6日にフレデリック・C・シャーマン中将率いる11.6任務群に加わり、10月17日にフィラデルフィア海軍造船所に到着、10月27日に海軍記念式典に参加した。
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