中部太平洋の戦いとは? わかりやすく解説

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中部太平洋の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 04:22 UTC 版)

ワシントン (BB-56)」の記事における「中部太平洋の戦い」の解説

第三次ソロモン海戦太平洋戦争戦局の転換点となり、この海戦ワシントンリー提督米軍勝利貢献した戦艦同士砲撃戦が終わると、ワシントン対空対地砲撃活躍するうになるサウスダコタ修理のため本国戻ったが、新鋭戦艦インディアナUSS Indiana, BB-58)と修理終えた戦艦ノースカロライナ (USS North Carolina, BB-55) および空母サラトガUSS Saratoga, CV-3)が最前線進出しワシントンエンタープライズ合流したハルゼー提督麾下艦船は、新鋭戦艦部隊空母機動部隊エンタープライズ隊、サラトガ隊)、巡洋艦部隊護衛部隊に分割された。1943年昭和18年1月下旬レンネル島沖海戦で、一式陸上攻撃機ラバウル航空隊)の空襲重巡シカゴ (USS Chicago, CA-29) が撃沈された。さらに第二艦隊司令長官近藤信竹中将)がトラック泊地出撃してきたので、ワシントンを含むアメリカ艦隊は、日本軍新たな攻勢艦隊決戦備えた。しかし第二艦隊行動陽動であり、日本軍ガダルカナル島撤収作戦発動してガ島から去っていった。 ワシントン1943年昭和18年4月までソロモン諸島周辺空母サラトガエンタープライズ護衛し以降各地空母任務部隊護衛行ったワシントン同年11月からギルバート・マーシャル諸島の戦い参加空母バンカー・ヒルUSS Bunker Hill, CV-17)、モンテレー (USS Monterey, CVL-26) の護衛サウスダコタらと行っている。 1944年2月1日クェゼリン環礁空襲する空母行動中だったワシントンは、戦艦インディアナ衝突事故起こした。これは護衛駆逐艦給油行おうとしたインディアナワシントン艦首横切ったことで発生したのだったワシントン艦首には約60mの亀裂入り大きな損傷負ったワシントンマジュロ応急修理行った当初応急修理30日間かかると見積もられていたにもかかわらず24時間体制修理担当した工作艦ヴェスタルの作業隊はわずか10日間で完了させた。その後ワシントン本格的な修理を受けるために真珠湾向かい艦首設置続いてワシントン州ブレマートンピュージェット・サウンド海軍造船所本格的な修理が行われた。 1944年6月マリアナ沖海戦では撤退する日本艦隊追撃命令ワシントン下され誰もが戦艦大和のことを噂したという。しかし大和との砲戦チャンスはなかった。1944年9月ワシントンはその主砲パラオペリリュー州アンガウル州対す艦砲射撃行い10月10日には沖縄攻撃十・十空襲)を行う空母部隊支援行った11日から14日までルソン島北部および台湾対す攻撃行い21日にはヴィサヤ諸島への空襲支援参加している。レイテ沖海戦ではハルゼー命令に従って小沢機動部隊追撃し大和との決戦望んでいたワシントン将兵落胆した。また小沢艦隊隷下航空戦艦日向第四航空戦隊司令官松田千秋少将)と姉妹艦伊勢まで42kmの地点まで接近していたが、アメリカ側戦艦部隊は南に引き返した1944年11月5日から1945年2月17日までワシントン高速空母機動部隊護衛として琉球諸島台湾ルソン島カムラン湾仏領インドシナサイゴン香港広東海南島南西諸島、そして日本の首都である東京へ空襲参加した1944年11月26日駆逐艦ジェンキンスらと演習中だったワシントン見張り先に通過した魚雷2本の航跡発見した。これは呂50が米機動部隊に対して発射した魚雷であることが戦後になってわかった1945年2月19日から22日までワシントン硫黄島への上部隊支援として艦砲射撃行った。その16インチ主砲と5インチ副砲による砲撃硫黄島地形変えてしまうほどであったが、将兵深く大規模に掘られ地下陣地潜伏していたため、日本側の死傷者はわずかであった。続く2月23日から3月16日まで硫黄島での支援活動行い2月25日には東京対す空襲を行う空母護衛行った3月18日3月19日および3月29日には本州航空基地を含む重要拠点対す空襲を行う空母部隊護衛務め3月24日におよび4月19日には沖縄島日本軍対す砲撃行っている。 絶え間なく続いた任務の後、1945年6月1日レイテ島サンペドロ湾錨泊したワシントン6月6日ピュージェット・サウンド海軍工廠にむけて出航する途中グアム真珠湾立ち寄り、ピュージェット・サウンドに到着したのは6月28日のことであった結局ワシントン太平洋戦線前線に再び参加することはなかった。ワシントン最後軍役8月中旬東京湾での活動及び9月2日降伏調印式への参加であったその後カリフォルニア州サンペドロ修理後公試行いパナマ運河通過して大西洋に戻る。10月6日フレデリック・C・シャーマン中将率いる11.6任務群に加わり10月17日フィラデルフィア海軍造船所到着10月27日海軍記念式典参加した

※この「中部太平洋の戦い」の解説は、「ワシントン (BB-56)」の解説の一部です。
「中部太平洋の戦い」を含む「ワシントン (BB-56)」の記事については、「ワシントン (BB-56)」の概要を参照ください。

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