巡洋艦部隊司令官
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「ローレンス・T・デュボース」の記事における「巡洋艦部隊司令官」の解説
少将となったデュボースは、第13巡洋艦部隊司令官となる。新鋭の軽巡洋艦「サンタフェ」 (USS Santa Fe, CL-60) に将旗を掲げ、部隊は「バーミングハム」 (USS Birmingham, CL-62) および「モービル」 (USS Mobile, CL-63) とともに中部太平洋の戦いに加わった。第13巡洋艦部隊はウェーク島攻撃、ガルヴァニック作戦、ブーゲンビル島の戦いの支援を手始めにレイモンド・スプルーアンス大将(アナポリス1907年組)の第5艦隊の中核の一つとして作戦に従事し、1944年に入ってもクェゼリンの戦い、トラック島空襲、パラオ大空襲、ニューギニアの戦い支援、サイパンの戦いで第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の支援を行う。 1944年8月、デュボースの第13巡洋艦部隊は「ジョッコー」ジョゼフ・J・クラーク少将(アナポリス1918年組)の第58.1任務群とアルフレッド・A・モントゴメリー少将の第58.4任務群とともにスカベンジャー作戦の一環として小笠原諸島に接近。部隊は「バーミングハム」に代わって「ビロクシ」 (USS Biloxi, CL-80) と「オークランド」 (USS Oakland, CL-95) が加わり、ほかに駆逐部隊も加勢して父島近海に進出し、ここで第4804船団の残党に遭遇する。8月4日夜、第4804船団から駆逐艦「松」が反転して第13巡洋艦部隊に挑んだ。「松」の反撃は正確ではあったが、やがて第13巡洋艦部隊の猛打を浴びて沈没。第4804船団の残存輸送船であった「利根川丸」(松岡汽船、4,997トン)も照明弾射撃で撃沈した。 8月末、スプルーアンスの第5艦隊はハルゼーの第3艦隊と入れ替わり、デュボースは再びハルゼーの指揮下に入る。引き続き第38任務部隊(ミッチャー中将)とともに行動し、9月のペリリューの戦い支援を経て、10月からは沖縄、台湾およびフィリピンへの攻撃のためウルシー環礁を出撃した。10月10日に沖縄に対する空襲を行ったあと、2日後には台湾各地を空襲し、これに対して第一航空艦隊(寺岡謹平中将)と第二航空艦隊(福留繁中将)は攻撃隊を何度も出撃させた(台湾沖航空戦)。10月14日、重巡洋艦「キャンベラ」 (USS Canberra, CA-70) と「ヒューストン」 (USS Houston, CL-81) が日本機の雷撃で航行不能となり、デュボースの第13巡洋艦部隊が損傷艦の援護にあたることとなった。このころ、ハルゼーは日本側の放送を傍受して舞い上がった日本艦隊が出て来るであろうと予測し、第30.3.1任務群を臨時に編成させてデュボースに指揮をとらせた。デュボースは4ノット未満しか出ない任務群を率い、ハルゼーの指示通りに絶えず遭難信号を発して辛抱の航海を続けた。はたして、日本海軍は志摩清英中将率いる遊撃部隊を出撃させたが、偵察機が第38任務部隊の健在を確認したためハルゼーの罠にはかからず、遊撃部隊をひっこめさせて逆に第30.3.1任務群に対する新手の攻撃隊を繰り出し、手負いの「ヒューストン」に新たな損傷を与えた。デュボースは10月17日まで任務群を指揮したあと、「キャンベラ」と「ヒューストン」をタグボートに委ねて第38任務部隊に合流していった。
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