第二次世界大戦・ヨーロッパ
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「ロバート・C・ギッフェン」の記事における「第二次世界大戦・ヨーロッパ」の解説
1940年、ギッフェンは海軍大学校(英語版)を受講し、受講後はワシントンD.C.の海軍作戦部入りして海軍予備員企画課課長に就任する。1941年3月に少将に昇進すると再び海上勤務に戻り、第7巡洋艦部隊司令官となる。1941年後半までの間、ギッフェンは北大西洋における中立パトロールを指揮し、真珠湾攻撃を経てアメリカが第二次世界大戦に参戦すると、イギリス海軍本国艦隊(ジョン・トーヴィー大将)に協力して輸送船団の護衛に兵力を貸し出した。 1942年3月27日、カスコ湾からスカパ・フローに向かっていた戦艦「ワシントン」 (USS Washington, BB-56) を基幹とするジョン・W・ウィルコックス(英語版)少将(アナポリス1905年組)の第39.1任務群で一つの事件が起こった。「ワシントン」の艦内からウィルコックスの姿が消えた。任務群内の重巡洋艦「タスカルーサ」 (USS Tuscaloosa, CA-37) は、「ワシントン」の左舷側から嵐の大西洋の中に人が転落するのを目撃していた。ウィルコックスの行方不明により第39.1任務群の指揮権はギッフェンに移譲され、ただちにウィルコックスの捜索が開始されたものの悪天候により成果はなかった。ギッフェンは重巡洋艦「ウィチタ」 (USS Wichita, CA-45) を引き続いて旗艦に指定し、デンマーク海峡や北海方面でドイツ軍の脅威と対峙し続けた。 秋に入り、連合国軍は北アフリカに新たな戦線の構築を企図する(トーチ作戦)。ギッフェンは第34任務部隊司令官ヘンリー・ケント・ヒューイット(英語版)少将(アナポリス1906年組)の指揮下、「ウィチタ」以下戦艦「マサチューセッツ」 (USS Massachusetts, BB-59) 、「タスカルーサ」、第8巡洋艦部隊および第8、第11駆逐部隊とともにトーチ作戦に参加し、北アフリカ戦線に向かった。11月8日、ギッフェンの第34.1任務群はカサブランカ周辺のヴィシー政権側の海軍艦艇および諸施設に対して攻撃を行い、ヴィシー政権の戦艦「ジャン・バール」、軽巡洋艦「プリモゲ」などの艦艇との間で砲撃戦を交わした(カサブランカ沖海戦)。北アフリカでの作戦にめどが立つと、ギッフェンは指揮下艦艇とともに太平洋戦線に転戦することとなった。
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