第二次世界大戦・フィリピン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/01 02:21 UTC 版)
「ジョン・D・バルクリー」の記事における「第二次世界大戦・フィリピン」の解説
1941年8月、中尉に昇進したバルクリーは第3魚雷艇隊(英語版)司令の職に選ばれ、フィリピンに赴くこととなった。当時、キーウェストでの実験にはバルクリーともう一人の士官が関わっていたが、どちらかが必ずフィリピンに赴任することになっていた。また、日米関係が緊張している時期であったため、バルクリーは司令の職を命じられたと同時に、隊を臨戦態勢に保っておくことを命じられる。マニラ行のタンカーに隊の魚雷艇6隻を搭載し、船上でも訓練を欠かすことはなかった。フィリピンのアメリカ極東陸軍を率いていたダグラス・マッカーサー陸軍大将は、かねがねフィリピンの島々の警備用に魚雷艇を200隻揃えることを希望していた。バルクリーとともにやってきた6隻がその第一歩となったわけであるが、200隻は途方もない数であった。6隻のほかに別の6隻が追加派遣されるはずであったが、太平洋戦争開戦には間に合わなかった。ともかく、フィリピンに着任したバルクリーは、マッカーサーの命により魚雷艇の使用計画プランを作成したり、現地のフィリピン人乗組員に魚雷艇の運用方法を教える職務に就いた。ところが、バルクリーはマッカーサーとアジア艦隊司令長官トーマス・C・ハート大将(アナポリス1897年組)が見守る中で行われた演習で、魚雷艇が警備のみならず攻撃にも十分使える戦力であることを立証してみせた。このことは、マッカーサーのフィリピン脱出時における脱出手段の選択の伏線となった。 極東陸軍とフィリピン軍はバターン半島に立てこもって日本軍をくぎ付けにしていたものの補給が途絶えて流行病も蔓延し、マッカーサーや主だった幕僚がコレヒドール島に籠ったままで前線の士気も低下しつつあった。そのさなかの1942年2月、ルーズベルトの指示によって、マッカーサーはオーストラリアへの脱出を決心する。ルーズベルトやジョージ・マーシャル陸軍参謀総長、現地の幕僚は脱出の手段として潜水艦の使用を念頭に置いていた。ところが、マッカーサーは大方の予想に反して魚雷艇での脱出を選択する。マッカーサーに閉所恐怖症の気があったこともあるが、前述の開戦前にバルクリーが行った演習で、魚雷艇に深い理解を示していたことが決め手となった。バルクリーはアジア艦隊の残存の幕僚から、魚雷艇で500マイルから600マイル程度の航海が可能かどうか問われると、「自分の能力と艇の能力に十分自信があった」こともあり、「まったく問題ない」「簡単にやれます」と答えた。バルクリー自身、航海の内容がマッカーサーの脱出計画であることをうすうす気づいており、マッカーサーに呼ばれてマッカーサーおよびジーン夫人を乗せて魚雷艇での短時間の航海を行ったのち、マッカーサーから「3月15日までにミンダナオ島経由でオーストラリアへ脱出する」計画を正式に打ち明けられ、「まったく問題ありません」と返答した。 かくして魚雷艇での脱出劇が始まることとなり、バルクリーが直接指揮するPT-41(英語版)にはマッカーサーとその家族、リチャード・サザランド参謀長など計8名が乗艇した。バルクリーは沿岸部を進めば日本海軍の艦艇がいるだろうと予測し、その目を避けるため外洋に出てミンダナオ島へ向かうコースを選定。3月11日20時にコレヒドール島を離れてミンダナオ島に向かった。3月12日にクーヨー諸島タガヤン島で小休止したのち、3月13日にミンダナオ島カガヤン・デ・オーロに到着して、日本軍の包囲からマッカーサーを無事脱出させるという大任を果たした。 なお、バルクリーおよび魚雷艇隊の一連の働きの陰には、バルクリーの着任以前から魚雷艇の有用性をマッカーサーに説いていたシドニー・ハフ陸軍中佐の存在も大きい。
※この「第二次世界大戦・フィリピン」の解説は、「ジョン・D・バルクリー」の解説の一部です。
「第二次世界大戦・フィリピン」を含む「ジョン・D・バルクリー」の記事については、「ジョン・D・バルクリー」の概要を参照ください。
- 第二次世界大戦・フィリピンのページへのリンク