第二次世界大戦・太平洋
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「ロバート・C・ギッフェン」の記事における「第二次世界大戦・太平洋」の解説
1943年1月4日、ギッフェンは第6巡洋艦部隊司令官と第18任務部隊司令官を兼ねる。最末期のガダルカナル島の戦いに参加し、ガダルカナル島行き船団の間接護衛に当たっていたが、1月29日夕刻からレンネル島近海で檜貝嚢治少佐率いる第七〇一航空隊と第七〇五航空隊の陸上攻撃機隊の波状攻撃を受ける(レンネル島沖海戦)。命中弾を受けた1機の一式陸上攻撃機が「シカゴ」 (USS Chicago, CA-29) に体当たりして「シカゴ」の艦上で炎上し、これを目標にして突撃した一式陸攻が「シカゴ」に魚雷を2本命中させた。ギッフェンは任務部隊に避退を命じ、「ルイビル」 (USS Louisville, CA-28) に「シカゴ」の曳航を命じたものの、任務部隊は翌30日に第七五一航空隊の陸攻隊につかまり、「シカゴ」に4本の魚雷が命中してついに沈没した。ギッフェンが日本軍機と対決するのはこれが初めてであり、真偽のほどはともかく日本機の実力を甘く見ていた節があった。 ガダルカナル島から日本軍が消え失せると、ギッフェンは休息ののち「ウィチタ」以下諸艦艇を率いてアリューシャン方面の戦いに参戦する。次いで中部太平洋戦線に転じ、マキンの戦い、クェゼリンの戦いで火力支援を担当する。1944年2月、スプルーアンスの第5艦隊はエニウェトクの戦いと、その支援のためのトラック島空襲を企図する。ここでスプルーアンスは、トラック諸島内にいまだ有力艦船が多数残っていると考え、空襲後には外に出てくるだろうと推測した。どうしても先頭を切って戦いたかったスプルーアンスは、脱出してきた有力艦船との砲戦を念頭に戦艦「ニュージャージー」 (USS New Jersey, BB-62) を第5艦隊旗艦に据えた。ギッフェンはこの当時、「ウィチタ」から「ミネアポリス」 (USS Minneapolis, CA-36) を自分の旗艦に指定し、トラック島空襲に参加する。2月17日、午前の空襲に引き続いて午後からは艦艇による掃討戦が開始され、間もなく環礁外にあった軽巡洋艦「香取」、駆逐艦「舞風」および「野分」を発見するが、砲撃戦の指揮はスプルーアンス自らが指揮した。幕僚はスプルーアンスの陣頭指揮に驚き、ギッフェンに委任するよう何度も進言するもなかなか聞き入れられず、進言を重ねた末にスプルーアンスはギッフェンに対して「香取」を始末するよう命令を下し、自らは「舞風」と「野分」を攻撃することとした。やがて「野分」は遁走し、「香取」と「舞風」は集中砲火を浴びて沈没していった。
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