第二次世界大戦の終結と戦後処理
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「連合軍軍政期 (朝鮮史)」の記事における「第二次世界大戦の終結と戦後処理」の解説
朝鮮は1910年から朝鮮総督府が統治する日本領朝鮮となる一方、一部の朝鮮人が朝鮮独立運動を行っていた。これに対し、当時の国際社会は日韓併合条約による韓国併合を承認する一方、一部の国々は独立運動団体・関係者への支援・取り込み工作を行っていた。その為、1941年に大日本帝国が第二次世界大戦(太平洋戦域)へ参戦する時点で、中華民国(国民政府)は大韓民国臨時政府・光復軍を財政・人的に後援し、ソビエト連邦は元東北抗日聯軍の朝鮮人将兵を取り込んで日本との戦闘を想定した民族旅団を編成していた。 大戦の戦局が連合国側の優勢となった1943年、連合国の米・英・中華首脳は対日方針を協議するためにエジプトのカイロでカイロ会談を開き、会談後に発表したカイロ宣言で「朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈(やが)テ自由且独立ノモノタラシムル」ことを宣言した。1945年2月、ヤルタ会談で米・英・ソ連首脳はソ連対日参戦に関する極東密約(ヤルタ協定)を締結し、その中で戦後朝鮮を当面の間連合国四ヶ国(米・英・華・ソ)による信託統治下に置くことを取り決めた。その概要は京城府を除く中部西側および南東部はアメリカ、済州島を含む南西部はイギリス、北西部は中華民国、鬱陵島を含む中部東側と北東部はソ連がそれぞれ分割統治し、京城府はアメリカとソ連が共同統治するというものであった。 1945年8月9日、ヤルタ協定の基づいてソ連は対日参戦を行い満洲国及び朝鮮・咸鏡北道へ侵攻を開始する。8月14日に日本政府はポツダム宣言を受諾し降伏する旨を連合国側に通告するが、ソ連の侵攻は9月2日に日本が正式に降伏するまで続き、満州(現中国東北部)・南樺太・千島列島及び朝鮮半島の北緯38度線以北(北朝鮮)を占領するに至った。 8月13日、アメリカの駐モスクワ特使ポーリ(Pauley)と駐ソ大使ハリマンは、ソ連が朝鮮半島に野心を持っていることを理由に、朝鮮及び満州の速やかな占領をトルーマン大統領に建議した。しかし、8月14日に日本政府からポツダム宣言受諾の通告を受けた時点で、既にソ連は満州と朝鮮北部に進駐を開始しており、主力がフィリピンにあるアメリカ軍を両地域へ即時投入することは非現実的との理由から、この提案は黙殺された。ただし、朝鮮半島をうやむやのうちにソ連に占領されるのを防ぐため、国務・陸軍・海軍調整委員会のディーン・ラスクとチャールズ・H・ボーンスティール3世は「北緯38度線で米ソの占領地域を分割する」という案を策定し、8月14日にトルーマン大統領の承認を受けた。この案はソ連に提示され、8月16日に同意の返答を受けた。 8月17日には一般命令第一号によって『38度線以北の日本軍(朝鮮軍)は赤軍(ソ連軍)に、以南はアメリカ軍に降伏する』ことが決定された。この命令はポツダム宣言を受諾した日本に伝達され、9月2日の降伏文書調印後に大本営によってこの方針が指令された。アメリカ軍は8月25日から朝鮮半島の北緯38度線以南(南朝鮮)への進駐を開始し、9月9日に京城府で朝鮮総督府から降伏文書に署名 を受けた。
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