第二次世界大戦の終結から廃線まで
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「ヴェズヴィアナ鋼索線」の記事における「第二次世界大戦の終結から廃線まで」の解説
第二次世界大戦終結後、トーマス・クック・グループは残った施設をセコンダーリエ・メリディオナーリ鉄道[訳語疑問点](Strade Ferrate Secondarie Meridionali, SFSM)に売却し、1947年にこれを復旧させた。SFSM(後にチルクムヴェスヴィアーナ鉄道、ヴォルトゥルノ自治法人[訳語疑問点])はこの施設を基にしてフェッロヴィーア・エ・フニコラーレ・ヴェズヴィアーナ社(Società Ferrovia e Funicolare Vesuviana)を設立。1953年、ケーブルカーはリフトに置き換えられた。 1947年から1961年までこの施設は一日あたり1000人の客をヴェスヴィオ山山頂へと運んでいた。1961年3月31日、フェッロヴィーア・エ・フニコラーレ・ヴェズヴィアーナ社はチルクムヴェスヴィアーナ社の下、名称をセッジョヴィーア・エド・アウトリーネエ・デル・ヴェズヴィオ社(Seggiovia ed Autolinee del Vesuvio S.p.A.)に変更した。 時代が下るにつれ、風による運休が発生したり依然増加傾向にあった団体客の輸送に不向きなリフトでは観光客輸送に適応しきれなくなり、1955年に開通した、標高1000mの位置に開設した駐車場に至る道路を経営した方が容易な程となっていた[訳語疑問点]。 1984年、これらの理由によりリフトは廃止された。1953年から1984年までの間、施設は年間10万人の利用客(うち過半数は世界各地からの来訪者)を輸送し続けた事になる。
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