中部太平洋諸島の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 14:37 UTC 版)
「秋月 (駆逐艦)」の記事における「中部太平洋諸島の戦い」の解説
1943年(昭和18年)10月31日まで、修理期間短縮のため既に出来上がっていた建造中の秋月型同型艦霜月(4月7日進水)の艦首を接合する工事を三菱長崎造船所で行う。一部残工事を佐世保工廠に場所を変え11月6日まで行った。竣工時より装備の25mm連装機銃2基を3連装2基に増強するとともに、空所であった後部高射装置予定部を機銃台に改装し25mm3連装機銃1基を装備し、25mm機銃は合計15門となった。艦橋上及び左右に13mm単装機銃4挺、九三式水中聴音機、21号電探、逆探を装備している。また爆雷投下台6基は撤去され爆雷投下軌条2本が装備された。 修理完成直前の10月8日、秋月二代目駆逐艦長として軽巡洋艦木曾副長緒方友兄中佐(朝潮型10番艦「霰」沈没時艦長)が補職される。「秋月」は工事完成とともに10月31日附で第三艦隊・第十戦隊・第61駆逐隊(初月、涼月、若月)に再編入された。 11月26日、岩国を出港し、駆逐艦4隻(秋月、島風、谷風、玉波)で空母2隻(翔鶴、千歳)をトラックまで護衛した。12月1日、トラック泊地に到着。同地で本艦は第61駆逐隊僚艦と初めて対面したという。だが12月7日、61駆(初月、涼月)は空母瑞鶴と利根型2番艦「筑摩」を護衛してトラックを出港し、第61駆逐隊は再び分散した。 当時、日本海軍はマーシャル沖航空戦で「中型空母1隻撃沈、大型空母1隻撃破、巡洋艦1隻撃沈」と認識し、また七五三航空隊も空母1隻、巡洋艦3隻を撃沈と報じ、12月6日の大本営発表で華々しく発表した。実際の戦果は、空母レキシントンII(CV-16)が魚雷1本命中で中破、巡洋艦1隻、駆逐艦1隻損傷だった。このような状況下、連合艦隊はマーシャル群島の航空隊整備を企図した。12月9日、クェゼリン環礁に第一航空戦隊・第二十二航空戦隊の基地物件を輸送。12月14日にトラック泊地に戻った。その後、「秋月」は大和型戦艦2番艦「武蔵」の標的船曳航作業を行った。国見(秋月軍医長)は武蔵の主砲弾が初弾挟叉したことを記憶しているが、同時に「大和ホテル」や「武蔵御殿」と揶揄された戦艦と駆逐艦の生活環境の違いにも言及している。この間の12月12日、第61駆逐隊司令は大江大佐から泊満義大佐に交代した(大江大佐は12月26日附で重巡洋艦摩耶艦長)。 詳細は「大淀 (軽巡洋艦)#戦争中期」を参照 12月25日、「秋月」は戊三号輸送部隊第二部隊に編入された。戊三号輸送部隊第二部隊は阿賀野型軽巡洋艦能代(第二水雷戦隊旗艦)、大淀型軽巡大淀、駆逐艦2隻(秋月、山雲)という戦力で、12月31日にトラックを出撃し、1944年(昭和19年)1月1日カビエンで陸軍兵と物資を揚陸した。作業終了後、アメリカ軍機の空襲を受けた。対空戦闘開始時、4隻は旗艦能代を中心にして、能代の右舷4kmに秋月、左舷3kmに山雲、能代の後方8kmに大淀という陣形をとっていた。カビエンからは零式艦上戦闘機約50機(第二航空戦隊《龍鳳、飛鷹》所属機30含む)が発進し、艦隊を掩護した。一方「能代」は大淀直衛に「秋月」を派遣したため、戊三号輸送部隊は能代・山雲と大淀・秋月という二群に分離する。零戦隊を突破した米軍機は二手にわかれると、大型の「能代、大淀」を主として狙った。大淀・能代・山雲が至近弾、小型爆弾の直撃、不発弾、機銃掃射等の被害を受けたものの、深刻なダメージを負った艦はなかった。秋月に大きな被害はなかった。零戦隊は撃墜24(不確実14)を報じ、6機(二航戦所属4機)を喪失している。1月4日、トラックに戻る。1月25日、「秋月」は再びラバウルへ進出したが2月上旬にはトラック泊地へ呼び戻された。
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