中部工業短期大学設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/26 22:57 UTC 版)
幸平は「名一工(名古屋第一工業高校)のことが軌道に乗った私には、かねてからの願望となっていた工業技術系の大学を持ちたいという理想を実現することが、70歳になった自分の胸の中で、うつぼつとして沸き立つのを覚えました」と語っており、大学の設置構想を考えていた。大学を設立する際に問題となったのは、キャンパスを何処にするかという問題であった。 比較的交通の便が良い、良くなりそうな所 勉強や研究に適した閑静とした所 将来拡張できそうな所 この三つを兼ね備えた所でなくてはならなかった。そして白羽の矢が立ったのが春日井市松本町だった。次の問題は4年制大学にするのか、短期大学をつくり4年制大学へと発展させていくのかであった。学園の現状と各方面の意見を総合し短期大学をつくることとなった。開学日を 1962年4月に設定し、校舎の建設、教員組織、カリキュラムの編成、機械器具・什器と図書の購入を急いだ。幸平の努力により、篠原卯吉名古屋大学教養部長、佐藤知雄名古屋工業大学長からは設置学科、カリキュラム、教員組織などにおいて適切な指導と援助を得ることができ、1962年1月21日付で設置の認可を得られた。こうして中部工業短期大学は機械と電気の二学科で開学した。その後施設整備を進め1962年12月8日に開学式を挙行した。しかしながら中部工業短期大学は4年という短い期間で幕を閉じた。1963年9月に四年制工科系大学設置の方針を定め「中部工業大学設置認可申請書」を提出し翌年に認可された。
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