ヒ65船団
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1944年(昭和19年)5月下旬、神州丸は第七護衛船団司令官松山光治少将を指揮官とするヒ65船団に加入した。神州丸をふくむ加入船舶12隻を、練習巡洋艦香椎と軽空母海鷹などが護衛した。松山少将は香椎を旗艦とした。5月29日、ヒ65船団部隊は北九州門司を出発する。シンガポールを目指してバシー海峡を南下中の6月2日、護衛の海防艦淡路がアメリカ潜水艦ギターロにより撃沈された。当時は雨で視界は不良、船団は単縦陣で側面を海防艦が護衛していたという。つづいて魚雷攻撃を回避しようとした輸送船有馬山丸(三井商船、8,967総トン)が神州丸の船尾に衝突する。有馬山丸には魚雷が命中していたが、早爆か不発のため小破であった。一方、神州丸では対潜用に搭載していた爆雷が誘爆し、航行不能になった。積荷のカーバイトに引火したという回想もある。約200名が死亡した。神州丸は香椎に曳航され、海防艦千振と19号に護衛されて基隆にむかった。台湾到着後、香椎等はヒ65船団に戻っていった。第一海上護衛隊は、ミ05船団に対し「基隆に寄港し、神州丸に乗船中の陸兵を各船へ移乗せよ」と命じた。神州丸は同地で7月末まで修理を受け、8月の宇品帰還後は、11月まで釜山への輸送任務を幾度も行っている。 これ以降のフィリピン輸送作戦は、揚陸艦として建造された神州丸以下特種船達の揚陸能力を最大限に生かす最後の作戦となった。
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