ヒ85船団・ヒ86船団
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「鵜来 (海防艦)」の記事における「ヒ85船団・ヒ86船団」の解説
詳細は「ヒ85船団」を参照 12月19日、第101戦隊(香椎、鵜来、大東、対馬、23号、27号、51号)は増援艦艇と共に、陸軍特殊船神州丸等を含むヒ85船団を護衛して六連を出撃した。ヒ85船団部隊は23日夜に高雄港外に到着したが、米軍機動部隊来襲の可能性があり洋上に退避した。12月25日午後、台湾高雄港に入港した。ここで陸軍特殊船4隻(日向丸、青葉山丸、吉備津丸、神州丸)の護衛を第三十一戦隊の海防艦三宅や能美等が引き継ぎ、陸軍特殊船はルソン島分遣船団「タマ38船団」となってフィリピンのルソン島にむかった。かわりにタンカーや貨物船がヒ85船団に加入し、大規模船団となった。 27日、ヒ85船団部隊は高雄を出航した。28日、船団部隊より対馬と帝北丸が分離、先行して海南島へむかう。29日、船団部隊に掃海艇101号が合流した。 1945年(昭和20年)1月1日未明、海南島楡林でPB4Y哨戒爆撃機の空襲をうけた僚艦対馬は、至近弾で浸水被害をうける。対馬は応急修理のため香椎等と分離し、同地に残った。1月4日、ヒ85船団部隊はベトナムのサン・ジャック泊地に到着した。 詳細は「グラティテュード作戦」および「ヒ86船団」を参照 サンジャック停泊中に船団の編成替えがおこなわれ、第101戦隊は内地へ戻るタンカーや貨物船を護衛することになった。1月9日、第101戦隊(香椎、鵜来、大東、23号、27号、51号)はヒ86船団を護衛してサン・ジャック泊地を出発した。 同時期、ハルゼー大将が率いるアメリカ海軍機動部隊は、レイテ沖海戦で取り逃がした航空戦艦2隻(日向、伊勢)を仕留めるため、バシー海峡を突破して南シナ海に侵入する。ハルゼー提督は、日本艦隊は仏印カムラン湾にいると推定していた。ところが航空戦艦2隻を含む第二遊撃部隊(志摩艦隊)は、空襲を懸念してシンガポール方面リンガ泊地に後退していた。そこでハルゼー提督は仏印方面で行動中の日本軍輸送船団に目標を変更する。 1月12日朝より、アメリカ海軍機動部隊はヒ86船団部隊に対する攻撃を開始した。加入船舶は全滅し、護衛部隊も3隻(香椎、第23号、第51号)が沈没、3隻(鵜来、大東、27号)が小破した。香椎では渋谷司令官を含め乗組員の大部分が戦死、鵜来は香椎生存者7名を救助した。13日から14日にかけて、残存3隻は海南島楡林に到着した。 この頃、第38任務部隊が香港や高雄に分散していたヒ87船団を攻撃していた。16日、空母エセックスより攻撃隊約30機が海南島楡林に飛来する。空襲で大東が小破したが、対馬をふくめた各艦の対空射撃により、F4U コルセアを1機撃墜した。20日まで、鵜来は海南海軍工作部で応急修理をおこなった。21日午前3時、ユタ15船団部隊(対馬、鵜来、大東、27号、帝北丸、明島丸)は楡林を出発する。泗礁山と青島を経由して2月7日に大東湾着。 26日昼、ユタ15船団部隊は南日島(現在の福建省莆田市秀嶼区)に立ち寄り、吉備津丸と合流した。翌27日朝、出航。2月10日、ユタ15船団部隊は北九州門司に到着して解散した。鵜来は佐世保へ移動し、13日から佐世保海軍工廠で修理をおこなう。20日、出渠した。
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