マレー作戦の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 05:13 UTC 版)
詳細は「マレー作戦」を参照 日本は大東亜戦争の開戦と同時に比島およびマレー方面への侵攻によって南方要域攻略作戦を開始する計画を立てた。12月6日、日本軍輸送船団はオーストラリア空軍偵察機に発見され、同機は戦艦1隻を含む大部隊が南方に向かっていることを報告した。一方のイギリス軍は日本軍輸送船団がタイ国へ上陸するのか、マレー半島へと上陸するのか、判断できなかった。12月7日午前9時50分、宣戦布告前、日本軍零式水上偵察機と陸軍戦闘機隊がPBYカタリナ飛行艇を撃墜する。午前10時30分、小沢中将の艦隊はG点に到達し、日本軍輸送船団は予定に従って分散した。行く先は、プラチャップ方面に輸送船1隻、バンドン方面に香椎と輸送船3隻、ナコン方面に占守と輸送船3隻、シンゴラとパタニ方面に第20駆逐隊(朝霧、夕霧、天霧)・第12駆逐隊(叢雲、東雲、白雲)・掃海艇3隻・輸送船17隻(第二十五軍先遣兵団)、コタバル方面に軽巡洋艦川内(第三水雷戦隊旗艦)、第19駆逐隊(綾波、磯波、浦波、敷波)・掃海艇3隻、輸送船3隻である。12月8日午前1時30分、日本軍はコタバル上陸を開始、イギリス軍も応戦し真珠湾攻撃より2時間前に交戦がはじまった。イギリス軍機は輸送船淡路山丸を航行不能とし、綾戸山丸、佐倉丸大破という戦果をあげ、護衛部隊司令官橋本信太郎第三水雷戦隊司令官に一時退避を決断させた。各方面の日本陸軍上陸作戦は成功した。 12月8日の早朝、ハワイの真珠湾攻撃より70分早く、日本軍はタイ国の国境に近いイギリス領マレーのコタバルに陸軍部隊を上陸させた(大本営もこのコタバル上陸をもって、対英米への宣戦を布告したと報じた)。この部隊は、マレー半島を南下してイギリスの極東における根拠地、シンガポールを攻撃予定であった。 第一航空部隊の松永少将はイギリス東洋艦隊が出現しない可能性が高まったため、配下部隊にシンガポールの四箇所の飛行場爆撃を命じる。元山航空隊は悪天候のため引き返したが、美幌航空隊32機が12月8日午前5時38分からシンガポールを爆撃、損害なくツドモー基地に帰投した。この時、山田隊の偵察機がシンガポールを偵察し、「1120、湾内に戦艦2(プリンス・オブ・ウェールズとレパルス)、巡洋艦4、駆逐艦4」を報告した。 マレー第一次上陸作戦を概成したと判断した馬来部隊指揮官の小沢治三郎海軍中将は9日午前0時にマレー第二次上陸作戦と英領北ボルネオ攻略作戦の編制に切り替えていた。海軍の第一航空部隊による開戦初頭のシンガーポールに対する空襲は相当の成果を収めたと判断され、陸軍の第三飛行集団の北部マレー方面の航空作戦はおおむね順調に経過している模様であった。英航空部隊の活動は一般的に低調なため、防備に追われ、消極作戦に終始しているものと判断された。12月8日および12月9日には敵情報が入ってこなかったことから「特に敵情に変化はなし」と判断していた。金剛・榛名以下の艦隊はカムラン湾に引き上げて燃料補給を実施することとした。輸送船団護衛の任にあった小沢治三郎中将(重巡洋艦鳥海座乗)指揮の南遣艦隊(巡洋艦及び水雷戦隊など)も、上陸部隊を乗せた輸送船団の護衛を終えてカムラン湾に引き返しつつあった。 12月9日午後2時30分、馬来部隊司令部は、英戦艦がセレター軍港に在泊しているという陸偵報告を受信した。開戦前の12月6日に日本の船団部隊は英軍機に触接されたので小沢中将は英軍による先制攻撃の公算が大きいと判断して厳重に警戒していたが、英軍の反撃がないまま上陸に成功し、輸送船の荷揚げが続行されているだけの状態では今後反撃を受けても、上陸部隊に損害はなく、若干の物資と空船を損失する程度で、英軍の反撃好機と日本の危険な時期は過ぎていた。しかし、将来的に好機をつかんで反撃に来る公算はあり、これに対し、南シナ海の哨戒強化、セレター在泊中の英戦艦に航空攻撃を加えて同港からの後退を強要する必要があった。さらに作戦海面では敵潜出没の報が頻繁にあり、少なくとも3隻以上の潜水艦が作戦に従事している様子で各部隊は対潜掃蕩を徹底してその制圧撃破を図る必要もあった。これらの情勢判断に基づき、小沢中将は主に航空部隊と潜水部隊をもって英海空部隊の反撃に備え、水上部隊の大部分は次期作戦の準備を行うと定めて発令した。
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