マレー半島、ジャワ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 03:20 UTC 版)
ポルトガルがマラッカを占領して、のちに来たオランダ東インド会社はジャワのバタヴィアに拠点をかまえた。17世紀初頭にはコショウ生産は年930万ポンドとなり、サトウキビの栽培も需要増で広まった。香辛料貿易が衰退するにつれて、輸出品はサトウキビ、コーヒー、ゴム、タバコ、パームヤシ、ココナツなどの作物に移った。 18世紀の東インド海域ではブギス・マカッサル族が制海権を持ち、イギリス東インド会社の許可を受けた個人商人のカントリー・トレーダーはアヘンを扱い、ブギス人と協力をして東インド貿易に参入した。のちにオランダ東インド会社がこれを攻撃してイギリスとオランダの紛争となり、東インドの海域は混迷して海賊が横行した。イギリスは植民地政府およびイギリス商人と、華僑のネットワークを用いて拡大した。イギリス東インド会社によるアヘンの三角貿易はイギリス・インド・中国で行われ、ルート上の東南アジアでもアヘンが流通した。イギリスは1819年のシンガポール獲得をはじめとしてマラッカ海峡の支配を進め、イギリスのカントリー・トレーダーと華商が活動してシンガポールは東南アジア華僑の中心となる。自由港であり関税収入がなかったシンガポールでは、アヘンの請負収入が植民地政府の収入の半分を占めた。 オランダ東インド会社は香辛料価格の下落で18世紀末に破産し、オランダ東インド政府に引き継がれる。オランダはイギリスの自由貿易に対して、サトウキビの強制栽培制度と貿易独占、そしてアヘンの徴税請負で利益を目指した。強制栽培ではジャワの農民にサトウキビやコーヒー生産を強制して、オランダ王立商社が独占販売した。強制栽培は批判を受けてプランテーションとなり、白人系の農場主のもとで契約移民の広東人が多数働いた。アヘンの徴税請負は、政府がインドからアヘンを輸入して、その専売権を公開入札するという制度である。中国人が多くを入札して請負料を納めて、ジャワの農民にアヘンを販売した。スペインとオランダは、イギリスにならってジャワとルソンでケシ栽培に取り組むが失敗に終わった。
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