マレー半島のゴム園のその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 09:06 UTC 版)
「愛久澤直哉」の記事における「マレー半島のゴム園のその後」の解説
昭和初期の三五公司ゴム園群は、金子光晴が南洋を放浪した時期の紀行文である「マレー蘭印紀行」にも登場する。金子は、三五公司ゴム栽培第一園や第二園の日本人クラブに宿泊もしている。その中に(三五公司)創業以来山暮らしというA氏が金子に語る場面もある。それによると「三五公司は、ゴム投資のユニバーシチといわれています。ゴム園経営者は、大概、三五公司出身といっていいですからな。三五公司は、はじめペンゲランを開墾しましたが、痩地なので、ここ(ジョホール州スリメダン)と、センブロンに主力をそそぐことになりました。センブロンが第一園、ここが第二園、ペンゲランが第三園となっています」という姿が見て取れる1933年(昭和8年)12月に愛久澤は岩崎との共同出資により、イギリス会社法にのっとり「コンソリデーテッド三五公司リミテッド」を開設したので、三五公司ゴム園群も同社の下経営されることになる。愛久澤は、1940年(昭和15年)8月75歳で病死したが、愛久澤の友人であった岩崎が愛久澤の遺業を引き受け、同年三五公司を自己が経営する東山農事会社の傘下に入れた。しかし、この事業も1945年(昭和20年)の日本の敗戦によりその一切を失うことになる。
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