マレー半島作戦
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1941年12月8日、第25軍司令官山下奉文中将はシンゴラに上陸して戦闘司令所を開設して作戦指導に当たっていたが、第五師団がアロルスターを占領すると16日に同地へ司令所を推進してケダー平地の作戦を指導した。作戦初期の指導の主眼は、各部隊をペラク河の橋梁確保を目的に突進させることにあった。このため、河村部隊方面は辻政信参謀が、安藤支隊方面は朝枝繁春参謀が第一線で指導に当たった。 第五師団主力はシンゴラ上陸後、佐伯部隊(佐伯静夫中佐)を国境に向かわせ、夜襲で敵を撃破し8日夜サダオを占領。河村部隊(河村参郎少将)は上陸後部隊の集結を図ってサダオに急進して国境突破の準備をさせた。佐伯部隊は河村部隊の指揮下に入り、9日河村少将は佐伯部隊に国境への突進を命じ、逐次サダオの歩兵第41連隊の半部を追及させ、敵陣地への攻撃を始め、11日午後8時20分ごろ敵はジットラ方向に退却したが、その後同方向より反撃もあり、12日午後5時30分ごろ英軍は全面的に退却を始めた。また、鉄道突進隊はシンゴラ上陸後は停車場を占領し、押収列車で8日午前5時20分シンゴラ駅を出発して南進を始めたが、タイ軍の抗戦で突進を阻止され、徒歩攻撃に移った。午後12時ごろタイと停戦したため、列車で前進、途中鉄橋が爆破されており、10日徒歩前進に移った。第五師団長からアロルスターに突進して河村部隊の戦闘を支援するように指示され、11日にケーテリー駅を奪取、12日夜に河村部隊に英軍が敗退、突進隊は追撃に移り、12日午前8時30分ごろアロー駅付近を攻略、続いてアロルスター方向に残敵を追撃した。12日午後8時、第五師団長・松井中将は河村部隊にアロルスターに向かい突進を命じる。13日午前11時ごろアロルスターに達し、一部の敵を撃破して占領した。 安藤支隊はパタニおよびタペー上陸以来南進し、12月15日タイとマレーの国境を突破し英領クロウに進入し、その後は戦闘を続け、23日カンポンボクメルバウ付近を前進中に大きな爆発が聞こえた。安藤支隊の到着前に攻撃目標にしていたペラク河の橋梁は爆破されていた。 開戦時に佛印からタイのバンコクまで陸路進駐した近衛師団主力は12月11日の南方軍命令で第25軍に復帰することになり、第15軍(タイ方面)と第25軍の協議によって、先発隊として正木支隊(支隊長は近衛歩兵第4連隊長・正木宣儀大佐)を編成した。14日、第25軍直轄となった正木支隊は安藤支隊の進路をベトン(タイ、マレー国境の部落)まで前進せよと命じられ、17日ベトンに到着した。15日、正木支隊はクロウ以降安藤支隊と分かれ、プキマタジャム(ペナン東東南)に前進してペナン島攻略準備をするように命じられた。クロウの英軍はペナンに退却したため、第25軍は正木支隊にペナンを攻略させるつもりだったが、18日すでにペナンからも撤退したという情報が入り、第五師団長はペナンに歩兵約二個中隊をペナンに派遣して正木支隊を待つように命じた。ペナン支隊は19日午後4時30分ペナン島を占領した。ペナン島はシンガポール島とともに最後まで死守されると考えられていた場所だったため、放棄されたのは予想外であった。近衛師団は17日以降さらに部隊の主力を正木支隊下に合流させ、12月21日から1月上旬の間、逐次マレーに転進をはじめ第25軍に復帰した。
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