マレー方面の軍備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 05:13 UTC 版)
1930年代の極東に対するイギリスの基本防衛計画は、来襲する敵(日本軍)をシンガポール要塞で防御し、その間に主力艦隊を回航して制海権を得ようというものだった。幾度かの計画変更の後、1941年4月にはアメリカ・イギリス・オランダの間で協定が結ばれ、アメリカは艦隊を派遣して地中海のイタリア艦隊を抑制し、イギリスは東洋艦隊を極東に派遣するという方針を確認していた。 ウィンストン・チャーチルイギリス首相・国防相はキング・ジョージ5世級戦艦デューク・オブ・ヨーク、レナウン級巡洋戦艦1隻、空母1隻の派遣を提案したが、海軍大臣は反対した。イギリス軍海軍当局は、極東での日本の脅威に対応するためにネルソン級戦艦2隻、リヴェンジ級戦艦4隻、空母ハーミーズ、アーク・ロイヤル、インドミタブルを送る計画であり、新鋭のキング・ジョージ5世級戦艦2隻は、ドイツ海軍ビスマルク級戦艦2番艦ティルピッツの出撃に備えてイギリス本国のスカパフローから動かすつもりはなかった。これに対しチャーチルは高速戦艦を中心とした遊撃部隊を送って抑止力とすることを強く主張する。チャーチルは大和型戦艦の存在を気にかけていた。 最終的に、キング・ジョージ5世級戦艦2番艦プリンス・オブ・ウェールズ、レナウン級巡洋戦艦2番艦レパルス、空母インドミタブル、護衛の駆逐艦エレクトラ、エクスプレス、エンカウンター、ジュピターからなるG部隊が編成された。 プリンス・オブ・ウェールズは10月23日にスカパフローを出港し、11月16日南アフリカのケープタウン、セイロン島を経て1941年12月8日の開戦直前の12月2日にシンガポールのセレター軍港に到着した。プリンス・オブ・ウェールズはマレー駐屯陸軍司令官アーサー・パーシバル中将に出迎えられ、各国報道陣に公開されてイギリス連邦諸国民に安心感を与えた。ウェールズ到着のラジオ放送は、南方に向け航海中の第二艦隊旗艦愛宕でも受信していた。 12月4日、フィリップス長官は飛行艇でマニラ(アメリカ領フィリピン)に移動し、アメリカアジア艦隊司令長官トーマス・C・ハート大将と会談、12月6日の日本艦隊・輸送船団発見の報告を受けて12月7日にシンガポールに戻った。 その一方、空母インドミタブルは11月13日にジャマイカ島近海で座礁事故を起こし、合流できなかった。かわりに小型空母のハーミーズの合流が決定したが、ハーミーズはダーバンで修理中のため合流できなかった。フィリップス提督は自軍の戦力に不安を感じ、リヴェンジ級戦艦リヴェンジ、ロイヤル・サブリン、クイーン・エリザベス級戦艦ウォースパイトを12月20日頃までに派遣するよう希望している。航空機に関してイギリス軍参謀本部は「日本軍機とパイロットの能力はイタリア空軍と同程度(イギリス軍の60%)」と想定し、マレー防衛計画に336機の配備を決定したが、実際には半数程度しか配備されていなかった。これはチャーチル首相がソ連に大量の航空機を供給していたからである。 日本軍はイギリス東洋艦隊の実情を把握しており、また対策をとっていた。12月7日、シンガポールの北東約300kmにあたるアナンバス諸島とマレー半島東岸のチオマン島の間に特設敷設艦辰宮丸が機雷を敷設。さらに第四潜水戦隊・第五潜水戦隊の潜水艦複数隻(伊53、伊54、伊55、伊56、伊57、伊58、伊62、伊64、伊66、伊65)が三線の散開線を構成して哨戒していた。潜水戦隊の軽巡洋艦(鬼怒、由良)は輸送船団護衛部隊と共に行動、潜水母艦はカムラン湾に所在だった。 日本海軍はマレー作戦の兵力をこの方面に向かわせていた。内容は高雄型重巡洋艦2番艦愛宕を旗艦とする南方部隊本隊(指揮官近藤信竹中将/第二艦隊司令長官、参謀長白石萬隆少将)があり、南方部隊本隊の戦力は第四戦隊(愛宕《第二艦隊旗艦兼第四戦隊旗艦》〔艦長伊集院松治大佐〕、高雄〔艦長朝倉豊次大佐〕)、第三戦隊第2小隊(金剛〔艦長小柳冨次大佐〕、榛名〔艦長高間完大佐〕)、第4駆逐隊(司令有賀幸作大佐:第1小隊〔嵐、野分〕、第2小隊〔萩風、舞風〕)、第6駆逐隊(司令成田茂一大佐:第1小隊〔響、暁〕)、第8駆逐隊(司令阿部俊雄大佐:第1小隊〔大潮、朝潮〕、第2小隊〔満潮、荒潮〕)という編成だった。愛宕麾下の金剛型戦艦2隻(金剛、榛名)は近代化改装を受けてはいたが、両艦とも艦齢30年になる老艦であり、また元来巡洋戦艦だったため、兵装・装甲の厚さも最新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズより劣っていた。他に重巡洋艦や水雷戦隊もあったが、英艦隊との砲力の差は如何ともしがたく、万が一の際は水雷攻撃に全力を傾けるつもりであった。連合艦隊参謀長宇垣纏少将は「ウェールズをやっつけたら、次はジョージ5世でも6世でも良い」と日記に残している。戦艦を増強すべきとの意見もあったが、山本五十六連合艦隊司令長官は雷撃隊で十分だと思うとしてその意見は容れなかった。 また、第一航空部隊として松永貞市少将を司令とする第二十二航空戦隊(美幌航空隊 元山航空隊:九六式陸上攻撃機27、元山航空隊 サイゴン基地:九六陸攻27)を南方に進出待機させ、新たに鹿屋航空隊の一式陸上攻撃機54機を配備してイギリス東洋艦隊を待ちうけていた。
※この「マレー方面の軍備」の解説は、「マレー沖海戦」の解説の一部です。
「マレー方面の軍備」を含む「マレー沖海戦」の記事については、「マレー沖海戦」の概要を参照ください。
- マレー方面の軍備のページへのリンク