マレー種のフィラリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 10:37 UTC 版)
「八丈小島のマレー糸状虫症」の記事における「マレー種のフィラリア」の解説
年が明けた1950年(昭和25年)5月初旬、佐々は一昨年と同じく伝研の加納と、若手研究員の林滋生(はやししげお)と佐藤孝慈(さとうこうじ)を伴い竹芝桟橋から八丈島を経由して八丈小島へ向かった。今回はDEC(スパトニン)の効果を確かめるのが主目的で、またそれに加え、ボウフラ対策として天敵となる金魚3匹を揺れる船の中、長時間苦労して東京から持参した。鳥打の船着き場に着くと佐々と加納を覚えていた子供たちが山から駆け下りて「バクのおじさん」と出迎えてくれた。名主や長老たちも伝研一行を歓迎し、一昨年と同様に夜間の採血と、新たにDECの投与を行いたい旨の申し出を承諾し、島民らへの段取りをつけるなど積極的に協力した。 今回も研究所として役場を借り、持参した3匹の金魚は手始めに、とある民家の天水桶に放した。その夜は新たに加わった林、佐藤の両名も島の青年たちから島酒による羽交い絞めの歓迎を受け、宴の終了後、伝研の佐々、加納、林、佐藤の4人は2組に分かれて、鳥打村と宇津木村を巡回して八丈小島全島民の採血を行った。 翌朝、顕微鏡で調べると宇津木村は20名中わずか1名からミクロフィラリアが確認されたのに対して、前回も採血調査した鳥打村では85名中の29名にミクロフィラリアが確認され、感染率は34.1パーセントという高率であった。 佐々はアメリカ留学中に世界に8種あるフィラリア虫の標本をつぶさに観察し続けた結果、一目でどの種類なのかが判別できるようになっていた。今回2年ぶりに採血した八丈小島島民の血液標本中のミクロフィラリアを顕微鏡で覗いた佐々は、すぐに違和感を持ったという。 これはマレー糸状虫だと、とっさに佐々は思った。バンクロフト種は平仮名の「し」の字のように緩やかに湾曲している。それに対してマレー種は細かく何か所も湾曲している。今、目の前にあるミクロフィラリアは明らかにマレー種のものであった。しかし従来の寄生虫学では日本国内に存在するフィラリア症はバンクロフト種のみとされ、これは佐々の留学していたジョンズ・ホプキンズ大学の図書館にあるフィラリア関連の蔵書でも同様であった。日本に存在しないはずのマレー糸状虫が八丈小島に存在するのだろうかと疑問を持ちつつ、昨夜採血した複数の血液標本を次々に検査したが、どれもこれもマレー種ばかりでバンクロフト種はまったく見当たらなかった。八丈小島のバクの正体はマレー種のフィラリアだったのである。 佐々は前回の調査時に、象皮病の症例は確認したものの陰嚢水腫や乳糜尿の患者が見られなかったことを不思議に思ったが、マレー糸状虫であるならその理由も合点がいく。バンクロフト糸状虫は象皮病に加え陰嚢水腫や乳糜尿を起こすが、マレー糸状虫では象皮病は起こしても陰嚢水腫や乳糜尿の症状は起こさないからである。明治期に調査を行った中浜東一郎や、京大や九大の研究記録にも同様の臨床所見があったことは前述したが、これらの所見はマレー種の特徴と合致していた。 八丈小島と地理的条件が近い青ヶ島や、すぐ隣の八丈島のフィラリアは日本国内他所の流行地と同じバンクロフト糸状虫であるのに、なぜ八丈小島だけ飛び地のようにマレー糸状虫が存在し蔓延していたのかは地理医学上興味深いが、その理由については未だに謎である。発見者の佐々は、八丈小島の島民の祖先は遠く離れた東南アジアのマレー糸状虫流行地から漂流して八丈小島へ住むようになったのかも知れないと推察し、寄生虫学者の森下薫は八丈小島の島民の祖先が黒潮に乗って遠く南方へ出漁した際に現地で感染し、故郷の八丈小島へ帰った者から広がり土着したとも考えられる。だが、生活環に中間宿主を必要とするこの種のものの土着が難しいことは、バンクロフト糸状虫の場合でも経験されており、珍しいという他にない、と指摘している。 マレー糸状虫はそれまで日本国内では発見されておらず、それ以降も八丈小島以外、日本国内の他の場所では見つからなかった。佐々は八丈小島のマレー糸状虫が寄生虫ではなく、他の動物であったなら特別天然記念物に指定されたであろうと、この発見に興奮したと言う。
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