マレー作戦の航空戦
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第3飛行集団は優勢に航空作戦を進めていたが、イギリス空軍はゲリラ的少数機で日本軍地上部隊に継続的に爆撃を加え、地上軍にも少なからず損害が生じていた。菅原が絶対的制空権の確保を優先するあまり、地上支援が少ない感じていた第25軍司令官の山下は「まずは地上作戦協力の方が緊急」という不満を抱いていた。山下の不満を受けて南方軍参謀谷川一男大佐は、「遠藤三郎率いる第3飛行団を第3飛行集団から第25軍の指揮下に移してはどうか」とする案を菅原ら第3飛行集団に示したが、菅原らは谷川の提案を一蹴、遠藤が「まずは何より重要なことは全般の制空権を獲得し、その傘の下で作戦することである」との意見を谷川に返した。そのため、引き続き第3飛行団は第3飛行集団の指揮下で菅原の方針通り、制空権確保に全力を投入し、1941年12月21日、第3飛行団がイポーとクアラルンプールでバッファローを4機撃墜、翌22日には陸軍航空隊の最新鋭戦闘機一式戦闘機(隼)を配備した加藤建夫中佐率いる飛行第64戦隊の隼23機がクアラルンプール飛行場を攻撃、迎撃に現れたイギリス空軍第453飛行隊のバッファローと交戦して15機を撃墜するなど航空殲滅戦を展開し制空権を確保していき、菅原の作戦通り、全般の制空権を確保した第3飛行集団の地上協力によりイギリス軍地上部隊は各地で第25軍に撃破され、シンガポールに向けて退却していった。 第3飛行集団は、北マレーに配備されていたイギリス軍機100機のうち50機を撃墜破して撤退させ、北マレーの制空権を確保したため、菅原は司令部をカンボジアのプノンペンからマレー半島のスンゲイパタニに前進させた。しかし、菅原の進出直後にスンゲイパタニがブリストル ブレニム爆撃機に奇襲攻撃を受け、あわや全滅か、という窮地に陥ったこともあった。 シンガポールが近づいた1942年1月8日、菅原は第25軍のシンガポール攻略支援のために入念な航空殲滅作戦を命じた。菅原の命令に基づき、1月12日に72機もの大編隊がシンガポールを空襲、迎撃してきたバッファロー10機を撃墜し、重爆撃機は悠々とイギリス軍飛行場を爆撃した。この日はさらに第2撃も加えられ、イギリス空軍に多大な損害を与えた。翌13日には、菅原はより前線に近い場所で指揮を執るため、スンゲイパタニで敵機の爆撃によりあわやという経験をしたのにも関わらず、恐れることなくクアラルンプールまで司令部を前進させた。第3飛行集団は1月18日までシンガポールに激しい空爆を加えて、12日からの累計の戦果は敵機110機撃墜破にも上った。その後は、マレー西海岸をシンガポールに向けて猛進している近衛師団の航空支援を行ったが、イギリス軍機の活動はなおも活発であり、1月18日には菅原の司令部があるクアラルンプールも爆撃を受け、菅原は無事であったが、地上で数機の日本軍機が撃破され、死者3名を含む多数の死傷者が出た。 シンガポールのイギリス空軍には、1942年1月はじめに中東から新型戦闘機ホーカー ハリケーン2個中隊約50機が補充されており第3飛行集団の脅威となっていたが、1942年1月20日に、新鋭戦闘機ハリケーンと加藤率いる第64戦隊が初めて交戦。この空戦で隼は1機を失いつつも敵指揮官機を含むハリケーン3機を撃墜して完勝し、隼の優位性を実証している。その後もハリケーンは日本軍の空襲の迎撃に出撃するが、そのたびに損失が膨んで、イギリス軍のハリケーンへの期待は裏切られた格好となった。 そしてエンドウ沖で壊滅的な損害を被ったイギリス空軍に対して、第3飛行集団は爆撃機によりシンガポールのイギリス軍飛行場を連日攻撃し、たまらずマレー方面のイギリス空軍司令官ホッバム空軍大将やガルフォード空軍少将はシンガポールを脱出し、日本軍から撃墜撃破を逃れた残存機もジャワやスマトラ島に待避してしまった。
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