馬來部隊本隊
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太平洋戦争開戦時の狭霧の所属は、第一艦隊・第三水雷戦隊(司令官橋本信太郎少将:旗艦川内)・第20駆逐隊(駆逐隊司令山田雄二大佐、朝霧、夕霧、天霧、狭霧)であった。さらに馬來部隊(指揮官小沢治三郎南遣艦隊司令長官、旗艦鳥海)、第七戦隊(司令官栗田健男少将)、第三水雷戦隊(司令官橋本少将)、第四潜水戦隊(司令官吉富説三少将)、第五潜水戦隊(司令官醍醐忠重少将)、第十二航空戦隊(司令官今村脩少将)、第二十二航空戦隊(司令官松永貞市少将)、第九根拠地隊(司令官平岡粂一少将)、第十一特別根拠地隊(司令官戸苅隆始中将)を構成していた。 1941年(昭和16年)11月27日、南遣艦隊司令長官小沢治三郎中将は、海南島の三亜港で南遣艦隊旗艦を練習巡洋艦香椎から、高雄型重巡洋艦3番艦鳥海(第四戦隊より派遣)に変更する。同日迄には、馬來部隊の水上戦力(第三水雷戦隊を含む)は三亜に集結していた。12月4日、馬來部隊指揮官(小沢中将、鳥海座乗)は、マレー半島上陸船団の出港を見届けて三亜港を出撃、狭霧は鳥海の直衛艦として行動を共にした。 12月8日に太平洋戦争が勃発すると、第20駆逐隊を含め第三水雷戦隊はタイのシンゴラ上陸に向かう輸送船団の護衛及び支援任務に従事した。ただし、本艦は馬來部隊主隊(鳥海、狭霧)として行動した(第三水雷戦隊本隊とは別行動)。マレー沖海戦においても、馬來部隊主隊2隻(鳥海、狭霧)は同一行動をとった。12月9日午後9時30分以降、日本軍陸上攻撃機3機は夜間索敵行動中に「暗黒の海面に白々と二条の航跡と黒い艦影二つ」を発見する。これをイギリス東洋艦隊と判断した陸攻は吊光弾を投下、さらに『敵見ユ』を打電した。この艦影は、夜戦誘致のため索敵行動中の鳥海と狭霧だった。小沢中将は「我レ鳥海」を信号したものの、陸攻は鳥海と狭霧を敵艦隊と判断したまま触接を続行する。小沢中将(鳥海)は北方へ避退を開始するとともに「中攻三機鳥海上空ニアリ」「吊光弾下ニ在ルハ鳥海ナリ」を第一航空部隊司令部に打電、これを受けて二二航戦司令官松永貞市少将が「味方上空、引返セ」を命じる一幕もあった。翌10日、イギリス東洋艦隊の戦艦2隻(プリンス・オブ・ウェールズ、レパルス)は陸上基地航空隊により撃沈された。
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