第26代大統領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 05:52 UTC 版)
「カルロス・イバニェス・デル・カンポ」の記事における「第26代大統領」の解説
1952年の大統領選挙でイバニェスは中道右派の農民労働党(スペイン語版)の支持を受けて出馬した。また左派の人民社会党(スペイン語版)やチリ女性党(スペイン語版)などの支援も取り付けたが、彼らは大臣のポストを拒否した。この選挙でイバニェスは「私は"ほうき"を持ってして、政治汚職と無能な政府を"掃除"するものである」と宣言して支持を集め、「希望の将軍」というあだ名を付けられた。 また、イバニェスは伝統的な政党を非難したが、具体的な代案などはほとんど出さず、政治的な立ち位置はあまりはっきりしていなかった。 47%の得票で選挙に勝利し、一度目に比べて地味ではあったものの、再びイバニェスは大統領の座に着くことに成功した。しかし、年老いたイバニェスはこの頃には病魔に冒されており、実際の政治的業務は他の閣僚に任せきりになっていた。 イバニェスの前に立ちはだかったのは経済問題だった。イバニェスには当時チリで最も深刻とされていたインフレーションへの対策が何もなく、インフレ率は1955年から1956年までに71%から83%まで上昇した。クライン-サックスミッションと呼ばれる政策により、アメリカから専門家を招聘しマネタリスト的手法による解決を図り、一時的に33%まで低下させる事に成功したが、根本の解決には到らず、公共交通経費は50%以上も上昇し、経済成長率は2.5%まで落ち込んだ。 イバニェスは民主主義保護法を廃止して多くの左派勢力を排除し、共産党を解散させた。一部のチリ国民はそれでも彼の独裁を支持し続けた。そのようなイバニェスト運動の熱狂的な支持者のうち、陸軍の退役将校によりリニア・ラクタ(直線)というグループが作られた。イバニェスは自身の独裁をより強固とする自己クーデターに関する会議をリニア・ラクタと行ったが、会議参加者の一部が会議の内容を報道機関へと密告した。このスキャンダルで支持を失ったイバニェスはついに退任することとなった。
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