第26代連合艦隊司令長官
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「山本五十六」の記事における「第26代連合艦隊司令長官」の解説
1939年(昭和14年)8月30日、山本は第26代連合艦隊司令長官(兼第一艦隊司令長官)に就任する。山本は連合艦隊司令長官に任官されることを拒み、吉田善吾が海軍大臣に内定された際、吉田の下で次官として留まり日米開戦を回避出来るように補佐する事を要望して、米内光政に人事の撤回を強く要求したが認められなかった。連合艦隊司令長官就任は采配・指揮能力を買われたものではなく、三国同盟に強硬に反対する山本が、当時の軍部内に存在した三国同盟賛成派勢力や右翼勢力により暗殺される可能性を米内が危惧し、一時的に海軍中央から遠ざけるためにこの人事を行った。 山本は後任の次官・住山徳太郎について「海軍はだれが大臣、次官になろうと、根本政策、方針に変わりなく微動だにしない。住山が来たって同じで、その見本を示すためだ」と周囲に語っていた。また山本は自宅で新聞記者を前に普段飲まない酒を飲み、最善の御奉公をするつもりだと連合艦隊司令長官としての決意と覚悟を語っている。連合艦隊司令長官は山本の本望ではなく、後の兵学校同期生会で「仮に手柄をたてて賞められるようなことがあっても、それは次官当時、油をためた手柄に勝ることはなかろう」と話している。 山本はアメリカとの戦争は無謀と知りつつ海軍軍人・連合艦隊司令長官としてアメリカを仮想敵とした戦略を練り、連合艦隊参謀長・福留繁にハワイ奇襲作戦について語っていた。また山本はアメリカと戦うためには航空機増産しかないとの信念に従って、当時最新鋭の零式艦上戦闘機と一式陸上攻撃機各1,000機の増産を求めるが、軍令部第一部長・宇垣纏に拒否された。福留によれば、大和型戦艦3・4番艦(信濃と111号艦)の建造を中止させて航空機優先の生産体制を作るため、伊藤整一を連合艦隊参謀長に、福留を軍令部第一部長にする人事が行われた。当時、水平爆撃の命中精度が著しく悪かったため、水平爆撃廃止論が圧倒的に有力であったが、山本は「私が連合艦隊の司令長官である限り、水平爆撃は廃止しない」と明言した。 1940年(昭和15年)、第二次世界大戦緒戦でナチス・ドイツはフランスを含めヨーロッパ全域を掌握する。同年2月下旬の手紙で山本は三国同盟について「唯あんな同盟を作って有頂天になった連中がいざと云う時自主的に何処迄頑張り得るものか問題と存じ候。当方重要人事異動の匂いあり唯中央改善と艦隊強化も得失に迷いあり候」と懸念していた。山本の憂慮とは裏腹に日本はドイツへの接近を強め、日本海軍も親独傾向を強めていた。 幾度かの駐在経験からアメリカとの国力の違いを認識しており、4月11日の故郷・長岡中学校での講演で「伸びきったゴムは役に立たない。今の日本は上から下まで、全国の老人から子供までが、余りにも緊張し伸びきって、それで良いのか」と語りかけ、日本がアジアの真のリーダーとなるには20-30年かかると述べている。 海軍省と軍令部の省部合同会議で総論として三国同盟締結に傾き、9月15日の海軍首脳会議にて調印に賛成の方針が決定した。会議直前、山本は海軍大臣・及川古志郎から機先を制されて賛成するよう説得され、会議では殆ど発言しなかったので、司会役の海軍次官・豊田貞次郎により「海軍は三国同盟賛成に決定する」が正式な結論となる。山本は条約成立が米国との戦争に発展する可能性を指摘して、陸上攻撃機の配備数を2倍にすることを求めたのみだった。山本は堀悌吉に「内乱では国は滅びない。が、戦争では国が滅びる。内乱を避けるために、戦争に賭けるとは、主客転倒も甚だしい」と言い残して東京を去った。2か月後の9月27日、日本は日独伊三国同盟に調印した。山本はこれを受け、友人の原田熊雄に「全く狂気の沙汰。事態がこうなった以上全力を尽くすつもりだが、おそらく私は旗艦「長門」の上で戦死する。そのころまでには東京は何度も破壊され最悪の状態が来る」と語った。 三国同盟の締結、日本海軍の海南島占領や北部仏印進駐などにより、日本とイギリスやアメリカの関係は急速に悪化していった。当時の総理大臣であった近衛文麿の『近衛日記』によると、近衛に日米戦争の場合の見込み問われた山本は 「それは是非やれと言われれば初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避する様極極力御努力願ひたい」 と発言している。 井上成美は戦後この時の山本の発言について「優柔不断な近衛さんに、海軍は取りあえず1年だけでも戦えると間違った判断をさせてしまった。はっきりと、『海軍は(戦争を)やれません。戦えば必ず負けます』と言った方が、戦争を回避出来たかも知れない」と述べている。山本は嶋田繁太郎に宛てた手紙で近衛との面会について「随分と人を馬鹿にしたる如き口吻にて現海軍の大臣と次官とに対し不平を言はれたり 是等の言分は近衛公の常習にて驚くに足らず。要するに近衛公や松岡外相等に信頼して海軍が足を地からはなす事は危険千万にして誠に 陛下に対し奉り申訳なき事なりとの感を深く致候御参考迄」と論じている。同時期、山本を訪問した反町英一に、秋には引退して故郷に戻りたいと語っている。11月10日の宮城で行われた紀元二千六百年記念行事には、蔣介石率いる中国軍から宮城を空爆されるのを防ぐとの理由で参加しなかった。 1941年(昭和16年)1月7日、海軍大臣・及川古志郎への書簡『戦備ニ関スル意見』にて「(真珠湾攻撃構想は)既に昨年11月下旬、一応口頭にて進言せる所と概ね重複す」とあり山本はすでに真珠湾攻撃を検討していた。山本は及川への書簡で、自分を第一航空艦隊司令長官に格下げし直接指揮させてほしいと希望し、空母喪失と引き換えに戦争を一日で終える気構えも示していた。また、山本は連合艦隊司令長官には米内光政を期待していた。また、新聞記者に山本が海軍大臣だった場合の連合艦隊司令長官人事を問われ「米内さんだヨ。あのひと一人だネ」と答えている。書状には「大臣一人限御含迄」とあり、軍令部総長・伏見宮には伏せていた。堀悌吉への手紙によれば及川は米内の連合艦隊長官人事に同意したが、井上成美の反対で潰されたという。 1月14日ごろ山本は第十一航空艦隊参謀長・大西瀧治郎少将へ手紙を送り、1月26日か27日に大西が長門の山本を訪ねてきた。大西への手紙の要旨は「国際情勢の推移如何によっては、あるいは日米開戦の已むなきに至るかもしれない。日米が干戈をとって相戦う場合、わが方としては、何か余程思い切った戦法をとらなければ勝ちを制することはできない。それには開戦劈頭、ハワイ方面にある米国艦隊の主力に対し、わが第一、第二航空戦隊飛行機隊の全力をもって、痛撃を与え、当分の間、米国艦隊の西太平洋進行を不可能ならしむるを要す。目標は米国戦艦群であり、攻撃は雷撃隊による片道攻撃とする。本作戦は容易ならざることなるも、本職自らこの空襲部隊の指揮官を拝命し、作戦遂行に全力を挙げる決意である。ついては、この作戦を如何なる方法によって実施すればよいか研究してもらいたい。」という要旨であった。大西は第一航空戦隊参謀・源田実に作戦計画案を早急に作るように依頼してそれに大西が手を加えて作案し3月初旬ごろ山本のもとへ提出された。山本は真珠湾の水深の関係から雷撃ができなければ所期効果を期待しえないので空襲作戦は断念するつもりであった。しかし不可能ではないと判断されたため戦艦に対し水平爆撃と雷撃を併用する案になった。 1月24日、衆議院議員・笹川良一に「日米開戦に至らば己が目ざすところ、素よりグアム・フィリピンに非ず、はたまたハワイ・サンフランシスコに非ず、実にワシントン・ホワイトハウスの思ならざるべからず。当路の為政家果たして此本腰の覚悟と自信ありや」と語った。4月、地方長官会議で東京に集まった全国道府県長官・知事を旗艦「長門」に招き、「イザ戦う時には水平線の彼方に敵艦隊の煙が見える前に、撃滅してしまう決心である」「私はつねに艦隊の最先頭の旗艦の艦橋にあって指揮する。これは日本海軍の伝統なのです」と演説し、国民に向けた最後の言葉となった。6月、自らを「昭和の相模太郎(北条時宗)」になぞらえ、「雄大なるドイツの大作戦、ああ壮なる哉」と賞賛する。9月12日、再び近衛に日米戦の見通しについて語り、前年9月の会見と同様内容を答申しつつ、戦争になった場合は山本自らが飛行機や潜水艦に乗って1年から1年半は存分に暴れてみせると述べた。
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