アメリカの敗戦と国際スポーツへの脱皮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 00:40 UTC 版)
「アメリカスカップ」の記事における「アメリカの敗戦と国際スポーツへの脱皮」の解説
1983年の第25回大会においてNYYC所属の「リバティー」号がオーストラリアのロイヤル・パース・ヨットクラブ(Royal Parth Yacht Club)から出場した「オーストラリアII」号に敗れ、アメリカズ・カップは初めてアメリカ国外へ渡ることとなった。しかし、それまでは予選の組み方や使用艇の要件等、明らかにNYYCにとって有利なルールが長年に渡るアメリカの独占を支えていたため、この敗戦はアメリカズカップが近代的な国際スポーツイベントへ生まれ変わる契機となった。 「リバティー」号のスキッパーであったデニス・コナーは「カップを失った最初のアメリカ人」としてアメリカ中からの非難に晒されたが、1987年オーストラリアのフリーマントルで開催された第26回大会に自らのチームを率いて乗り込みカップ奪回に成功した。コナーは一転アメリカンヒーローとして凱旋し、ロナルド・レーガン大統領によってホワイトハウスに招待され、"ミスター・アメリカズカップ"と称されるようになった。同時にカップ奪回に賭けたコナーの苦闘は小説化され、映画「ウインズ」の題材にもなった。 しかし、1995年の第29回大会にサンディエゴ・ヨットクラブ(San Diego Yacht Club)からチーム・デニス・コナーを率いて出場したコナーは、ニュージーランドのロイヤル・ニュージーランド・ヨット・スコードロン(Royal New Zealand Yacht Squadron)から出場したラッセル・クーツ率いるチーム・ニュージーランドに敗れ、コナーは「カップを2度失った最初のアメリカ人」という汚名を着ることとなった。カップは再び南半球に渡ることとなり、より公平なルールで争われるようになったカップはもはやアメリカの独占する“アメリカ合衆国のカップ”では有り得なくなった。
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