ミシシッピ川までの鉄道網の拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 04:29 UTC 版)
「アメリカ合衆国の鉄道史」の記事における「ミシシッピ川までの鉄道網の拡大」の解説
年代・地域別の鉄道延長距離(単位マイル)地域1830年1840年1850年1860年1870年1880年1890年ニューイングランド0 513 2,596 3,644 4,326 5,866 6,878 大西洋岸北部30 1,280 2,722 5,993 9,973 14,245 18,596 五大湖周辺東部0 198 1,018 5,934 8,319 14,307 21,719 大西洋岸中部10 651 958 2,650 3,013 4,691 9,032 中西部南部および大西洋岸南部0 81 1,124 5,257 7,596 8,568 18,624 五大湖周辺中部0 0 107 4,380 9,705 22,475 37,463 西部北部0 0 0 0 35 2,542 8,887 五大湖周辺西部0 0 0 656 3,960 7,600 20,349 テキサス周辺0 21 46 382 661 3,041 9,854 太平洋岸0 0 0 22 1,578 4,388 12,160 アメリカ合衆国合計40 2,755 8,571 28,920 49,168 87,724 163,562 蒸気機関車による鉄道が発達し始めると、まもなくそれは大きな利益の上がる事業であると判明し、鉄道への投資が殺到した。いわゆる鉄道狂時代(鉄道熱)である。これにより、アメリカ合衆国の東部では急速に鉄道網の整備が進み、1850年代までにミシシッピ川以東に路線網ができあがってきた。 エリー鉄道は、エリー運河と同様にニューヨークとエリー湖を結ぶことを目指して建設された。エリー鉄道は独特の特徴を持っており、故意に他の鉄道と異なる軌間を採用して連絡を拒絶することで輸送を独占すべく、6フィートの広軌を採用しており、また他の鉄道がまだ木製レールを採用していた時代にイギリスから輸入した鉄製のレールを使用していた。さらに木造のトレッスル橋を建設して全線を高架化することを目指した。このエリー鉄道が、鉄製レールの輸入費用を削減するために資金提供を行ってスクラントンに建設させた製鉄所が、アメリカにおける製鉄業の嚆矢となった。しかし1837年恐慌を受けて困窮し、さらにニューヨークで発生した大火により多くの線路を失ってしまい行き詰まった。1845年に再建され、高架で建設する方針を放棄して地上路線で建設を再開し、1851年にエリー湖に到達した。 ペンシルバニア鉄道は、ニューヨークやボルチモアが西部と結ぶ鉄道を建設し始めていたことに対抗してフィラデルフィアが計画したもので、フィラデルフィアとピッツバーグを結ぶことを目指していた。ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道と同様に、アレゲーニー山脈を越える難所を抱えていたが、こちらはさらに標高が高く困難な工事となった。ガリツィントンネルやホースシューカーブなどの当時としては困難な土木工事を行い、1857年までにフィラデルフィアとピッツバーグが結ばれた。他社と連絡してシカゴまでの運行を確保し、大鉄道会社として発展していった。一方、ペンシルバニア鉄道と長く激しい競争を繰り広げることになるニューヨーク・セントラル鉄道は、もともとエリー運河への接続路線として建設された多くの群小鉄道を買収・合併してその間を連絡していくことによって、エリー運河と並行する鉄道路線を形成していくことによって発展した。こちらはペンシルバニア鉄道に比べて距離は長かったものの山を越える必要が無かったため、建設上も開業後の運行上も有利であった。 ミシシッピ川に初めて鉄道が到達したのは1854年のことであった。そしてそこに橋を架けて初めて越えた鉄道はシカゴ・ロック・アイランド・アンド・パシフィック鉄道で、1856年のことであった。しかしこの橋は、川を行く蒸気船が衝突して火災を起こし、完成して3週間で焼け落ちてしまった。この件は、橋が河川水運を妨害したとして訴訟となり、鉄道会社側の弁護士を務めたのは後に大統領になるエイブラハム・リンカーンであった。リンカーンは、船員が通常の注意を払ってさえいれば橋は障害とならないこと、鉄道にミシシッピ川の架橋を許可しなければ、西部の発展が大きく遅れることを論じて、鉄道会社の勝訴に貢献した。リンカーンはこの後も弁護士として、そして大統領として、鉄道の問題にかかわり続けることになる。 こうした鉄道網の整備に連邦政府はほとんど関与せず、規制も規格化も行わなかったため、民営の鉄道各社がそれぞれの思惑でそれぞれの規格により鉄道を建設することになった。このため、鉄道は2地点を結ぶのみで異なる鉄道路線との連絡への配慮がほとんどなく、同じ都市でも異なる場所に駅があるために、長距離を旅行する際は各都市で駅の間を馬車で移動するなどの手間がかかることになった。運賃や輸送手続きなどの制度も各社ばらばらで、旅客や荷主にとっては大きな負担となっていた。 軌間についていえば、ジョージ・スチーブンソンの定めた標準軌である4フィート8.5インチ (1,435 mm) を採用する鉄道が多かったが、各商業都市が市場となる土地を求めて建設した鉄道が多かったことから、相互連絡を故意に拒絶するためにあえて異なる軌間を採用する鉄道もあった。1871年の時点では実に23種類の軌間が存在しており、乗換や貨物の積み替えの便宜の必要性から主要な鉄道が標準軌に統一されたのは1887年になってからであった。 また鉄道ができるまで、各都市はそれぞれの地点において時刻を定めており(地方時)、標準時の考え方はなかった。したがって、近くにある都市でも数分の時差があることは珍しくなかった。人の移動がゆっくりであった時代には大した問題ではなかったが、鉄道によって各都市が短時間で結ばれるようになると大きな問題となり、特に鉄道会社にとってはダイヤグラムの編成上の困難があった。そこで、各鉄道はその鉄道会社の本社がある都市の時刻を「鉄道時刻」として定め、その会社の全路線で適用していた。本社所在地以外の駅では、駅の時刻と現地の時刻に時差が発生することになる。鉄道会社が多く乗り入れる都市ではそれだけ多くの鉄道時刻があることになり、例としてピッツバーグでは現地の時刻のほかに6つの鉄道時刻が定められていた。やがて、総合時刻会議 (General Time Convention) が開催されてアメリカを4つの時間帯に分割してその中では共通の時刻を採用する「鉄道標準時」が決められ、1883年11月18日からすべての鉄道がこの鉄道標準時によって運行されるようになった。多くの人々や工場が鉄道の時刻に合わせて行動するようになったことから自然にこの鉄道標準時の制度は社会へも普及していき、ついに議会も1918年に標準時法(英語版)を制定して正式にアメリカ全土が鉄道標準時を採用することになった。また、総合時刻会議は後にアメリカ鉄道協会の母体ともなった。 人口が多く産業も比較的発展していたアメリカ合衆国東部では、完全に民間に任せておいても鉄道は利益が上がり、鉄道網が伸びていった。裕福な投資家が出資して鉄道会社を設立し、鉄道事業で利益を上げて償還するビジネスモデルが成立していた。しかし鉄道網の建設が西へ進むにつれて、次第に条件は悪化していった。そこで、鉄道会社への支援を行うために地元の州や町が建設費の一定額を補助し、あるいは開業後の免税特権を与えるなどの動きが出てきた。場合によっては公益企業として州や町の出資で鉄道会社が設立されることもあった。イリノイ州の政策に基づき州内を縦貫して建設されたイリノイ・セントラル鉄道では、初めて連邦政府も鉄道への支援に乗り出し、1850年に土地供与法が成立した。この法律では、鉄道を建設した会社に対して、その路線の両側一定幅の国有地を無償で供与する(土地供与(英語版))ことを定めていた。鉄道会社は線路を建設して連邦政府から国有地の無償払い下げを受け、この土地を開拓希望者に分譲することで土地の売却益を上げると共に沿線への人口と産業の定着を図ることになった。鉄道がなければ広大な土地もほとんど無価値であるが、鉄道を建設して適切な輸送サービスを提供すれば発展が望めることになり、定着した人口と産業はその鉄道の利用者となる。したがって、鉄道会社が利益を上げるためにはよい鉄道サービスを提供して沿線の発展に努める必要があり、これが自然と鉄道の公益性を発揮することが期待されていた。土地供与を受けた鉄道会社は競って移民の誘致に努め、これがアメリカの開拓を推進し、国力の発展につながった。一方で無償で連邦政府の財産を払い下げる制度は、数々のスキャンダルに見舞われることにもなった。 鉄道の建設は、アメリカの社会を大きく変えていった。広大な国土は鉄道によって短時間で結び付けられ、開拓が促進された。また鉄道会社はそれまでにない大企業であり、経営や労務などの点で初めてとなる制度を作っていき、資本主義的な仕組みの根幹を形成した。技術的な開発を促進し、特にレールに大量の鉄材を消費することから、製鉄業を中心とした重工業の発展を促した。そして多くの労働者を使用する最大の雇用先ともなり、移民が最初の就職先として鉄道会社を選ぶことも多かった。
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