ミシシッピ州での政治とアメリカ合衆国上院議員
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 14:17 UTC 版)
「アデルバート・エイムズ」の記事における「ミシシッピ州での政治とアメリカ合衆国上院議員」の解説
1868年、エイムズは連邦議会から暫定的ミシシッピ州知事に指名された。その統括範囲は間もなくミシシッピ州とアーカンソー州からなる第5軍事地区に拡張された。この任務にある間、解放奴隷の権利を改善する幾つかの手段を採り、州の歴史では初めて黒人の役職者を指名した。レコンストラクションに最も随わない形として、州内では白人至上主義者の暴力が横行したが、エイムズの任期中の1869年に一般選挙が行われ、翌年州議会が招集された。 ミシシッピ州議会は、州がアメリカ合衆国に再加入を認められた後で、エイムズをアメリカ合衆国上院議員に選出した。エイムズは共和党員としてこの職を1870年2月24日から1874年1月10日まで続けた。エイムズはワシントンD.C.でこの時アメリカ合衆国下院議員となっていた元の上官バトラーの娘、ブランチ・バトラーと出逢い、1870年7月20日に結婚した。夫妻にはアデルバート・エイムズ・ジュニアやバトラー・エイムズを含め、6人の子供ができた。上院議員としてのエイムズは有能な演説家となり、敵対する民主党員ですらその能力を認めるまでになった。 上院では、上院登録法案委員会の委員長を務めた。1873年に再度ミシシッピ州知事に選出された時に、その職に就任するために上院議員を辞職した。1874年に就任する前ですら民主党支持者からかなりの敵意を受けており、1873年12月にはヴィックスバーグで暴動が発生し、黒人が圧倒的多数を占める共和党支持者に対する一連の報復が始まった。1875年の州選挙が近付くと、民主党は黒人に支持された共和党知事を排斥するために武装蜂起を計画した。共和党活動家に対する武装攻撃が急増し、エイムズ知事は連邦政府に救援を依頼したが拒否された。その年の11月、民主党は州議会両院の多数派となった。エイムズはその選挙が有権者に対する選挙妨害と欺瞞に満ちていると考えたので、連邦議会の干渉を要請した。州議会は1876年に招集され、エイムズ知事と州全体の役職者に対する弾劾文書を作成した。エイムズは議会が自分に対する弾劾文書を取り下げることに合意した数ヶ月後に知事職を辞任した。
※この「ミシシッピ州での政治とアメリカ合衆国上院議員」の解説は、「アデルバート・エイムズ」の解説の一部です。
「ミシシッピ州での政治とアメリカ合衆国上院議員」を含む「アデルバート・エイムズ」の記事については、「アデルバート・エイムズ」の概要を参照ください。
- ミシシッピ州での政治とアメリカ合衆国上院議員のページへのリンク