ミシシッピ自由民主党、1964年
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「ミシシッピ州の歴史」の記事における「ミシシッピ自由民主党、1964年」の解説
1964年、公民権運動の組織家達は州内政党からの白人ばかりの候補者名簿に挑戦するためにミシシッピ州自由民主党を立ち上げた。ミシシッピ州の選挙権登録者がその候補者の認知を拒んだとき、彼らは独自の予備選挙を行った。選出されたファニー・ルー・ハマー、アニー・デバインおよびビクトリア・グレイは合衆国議会議員選挙に出馬し、1964年民主党全国大会のミシシッピ州代表の候補者名簿にも載せた。 ニュージャージー州アトランティックシティで開催された党大会で、ミシシッピ州自由民主党の存在は都合の悪いことだった。民主党の組織家達は党内の人種差別と戦うよりも、公民権法を成立させたジョンソンの功績を祝う行事を計画していた。ジョンソンも、共和党候補者バリー・ゴールドウォーターが民主党の固い地盤である「ソリッド・サウス」を浸食する事を心配し、同時に独立系候補者ジョージ・ウォレスが民主党予備選の間に北部で得た支持を心配していた。南部州からの白人ばかりの代議員達は、ミシシッピ州の公式の代議員が議席を得られなかった場合は議場を出て行くと脅した。 ジョンソンはミシシッピ州自由民主党が信任状委員会に訴えることを妨げられなかった。その席ではファニー・ルー・ハマーが、彼女やその仲間が受けた殴打や、選挙権登録をするときに直面した脅しについて雄弁に証言した。ハマーはテレビカメラに向かって「これがアメリカですか?」と尋ねた。 ジョンソンは、ミシシッピ州自由民主党が投票権は無い全州代表の資格で2議席を受け、公式の民主党によって送られた代議員が議席を保持するという「妥協案」を提示した。ミシシッピ州自由民主党はこの妥協案に怒って拒否した。ミシシッピ州自由民主党は公式の認知が否定された後ですら、集会内で扇動を続けた。1964年の党員集会はミシシッピ州自由民主党や公民権運動の中にあった多くの者を幻滅させたが、ミシシッピ州自由民主党を破壊することはなかった。新しい党は黒人回教徒の代表マルコムXを招き、マルコムXはその設立集会で演説しベトナム戦争に反対した。 1960年代、多くの政治家や役人が声に出して反対し、数人のクー・クラックス・クランやその同調者の暴力的操作によって、ミシシッピ州は反動の州という評判が立った。ミシシッピ州は1966年に禁酒法を撤廃し、1995年にアメリカ合衆国憲法修正第13条を批准したが、それぞれ最後の州だった。
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