1850年 - 1860年
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「リーハイ・バレー鉄道」の記事における「1850年 - 1860年」の解説
建設は1850年に、路線の測量と整地工事から始められたが、その進捗は遅く資金は不足していた。1852年にアサ・パッカー(英語版)がこの会社に投資してから鉄道の発展が始まり、そしてリーハイ・バレー鉄道へと改称した。パッカーの支援とリーダーシップにより、主任技術者のロバート・セイヤー(英語版)は1855年にモーク・チャンク(現在のジム・ソープ(英語版))からデラウェア川沿いのイーストンまでの路線を完成させた。イーストンからは、ペンシルベニア運河デラウェア支線(英語版)を通じてフィラデルフィアへ、あるいはデラウェア川を通じてニュージャージー州フィリップスバーグ(英語版)へ、そしてそこからモリス運河(英語版)とセントラル・レールロード・オブ・ニュージャージーを通じてニューヨークの市場へ石炭を出荷することができた。イーストンでは、リーハイ・バレー鉄道はフィリップスバーグのセントラル・レールロード・オブ・ニュージャージーおよびベルビディア・デラウェア鉄道(英語版)へと連絡するために2階建ての橋を建設した。 全長46マイル(74 km)のリーハイ・バレー鉄道はモーク・チャンクでビーバー・メドウ鉄道 (Beaver Meadow Railroad) に接続していた。ビーバー・メドウ鉄道は1836年に建設され、ペンシルベニア中部炭田のジーンズビル (Jeansville) から無煙炭をモーク・チャンクにあるリーハイ運河(英語版)まで輸送していた。25年にわたりリーハイ運河はモーク・チャンクより下流側の輸送を独占しており、各荷主に高い運賃を課していた。リーハイ・バレー鉄道が開業すると、荷主は運河から鉄道へ石炭輸送を転換し始め、開業から2年以内にリーハイ・バレー鉄道は年間40万トンの石炭を輸送するようになった。1859年には19両の機関車と600両の石炭車を保有するようになった。
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