1850年から第一次世界大戦まで
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「フルダ」の記事における「1850年から第一次世界大戦まで」の解説
1852年の産業統計職業人数靴職人 92 肉屋 43 仕立屋 35 リンネル織り 34 家具職人 27 パン職人 25 鍵職人 19 スパイス販売 91 織物販売 20 鉄製品販売 3 装身具販売 4 食品販売 25 その他の商人 56 運送業者 38 楽士 40 宿屋 8 上流階級のための宿屋 5 レストラン 2 飲み屋 86 地元のマーケットの空間的制限により、手工業的小規模産業から工業生産への移行は緩慢であった。最初の信頼できる産業統計である1852年の統計は、フルダで約600人のマイスター職人とほぼ同数の遍歴職人、合わせて234人の商人と51人のその他の就労者を示している。合計214人(その半数が女性)が独立した手仕事に従事していた。縫い子、木こり、その他の日雇い労働者などがそれにあたる。奉公人のカテゴリには、636人のクネヒト、女中、家事手伝いがおり、このうち 527人が女性であった。 この統計結果では、手工業者のうち14件が「Fabrik」(工場)と記載されている。その中で1822年に設立されたヨハン・ハインリヒ・シュミットのリネン織り工場が最大の雇用主で、284台の織機で456人が働いており、このうち60人が14歳以下であった。もう一つの大口雇用主が精霊病院の「貧困者救済授産所」であった。ここでは針仕事や機織がなされており、350人が働いていた。従業員数135人が1社、50人が1社あった。他の8社は、従業員数20人以下であった。全部で900人の工業労働者のうち、800人が繊維産業に従事していた。 1866年に鉄道フランクフルト - ベーブラ線に接続し、工業都市のフランクフルトとカッセルとが結ばれたことによりフルダの一面的な経済構造に変化が生じた。この鉄道は、元々フルダを経由する計画はなく、市議会がヘッセン選帝侯に市とその住民の貧困拡大を阻止することの必要性を強く訴えかけたことで実現した。その後速やかに経済興隆が起こった。この街は、市壁で制限された中世の領域を超えて拡大していった。工業用地を含む最初の街の拡大は、ウニヴァージテーツ広場と駅舎との間、兵舎周辺地域(現在の単科大学の敷地)で起こった。 当初の起業者は、手工業を拡大した地元の人間であった。初期には主に繊維産業に携わった。ヴァーレンティーン・メーラーは、後のメーラー AG を設立し、その製品は輸出もされた。現在のフリッツファブリークは、1888年にプラッシュ織り工場として設立された。この他におよそ1ダースほどの繊維業者が設立され、なかには3桁の従業員数を擁する会社もあった。これに対して、1852年には最大の雇用主であったヨハン・ハインリヒ・シュミットは、機械織りへの転換を行わず、会社は1885年に売却された。 他の分野で工業生産規模の会社はわずかであった。特筆すべきは、1867年に設立された琺瑯製品製造業者ベリンガー社で、20世紀前半にはフルダ最大の雇用主であった。1863年には錫職人の一家から、現在も存続している金属製品工場ヴァイセンゼーが設立された。この他のフルダにおける製造業の主力が蝋製品であった。アイカ、ギース・ケルツェン、ベルタ、リュプザム(1886年創業、1900年時点60人の従業員を擁していた)がその業者であった。ヨハン・フェルディナント・ミュラーは宮廷錠前師の息子であり、1864年にフルダで最初の機械工場および鋳鉄所を設立したが、1886年に閉鎖された。地元の鍛冶屋によって創設された機械工場がパウル・カイルであった。 19世紀後期に中核部以外の地区でも起業が始まった。その創設者は、以前からの地元住民ではなく、他所から転入した企業もあった。フルダ商人の家庭出身のマックス・シュテルンとエマヌエル・シュテルン兄弟は1892年に塗料工場を設立した。この会社はローディウスを経てテクノス=グループ傘下となった。1874年以降、アルンシュタット、ザルツハウゼン(ドイツ語版、英語版)、フランクフルトで設立した会社がこの街に移転した。20世紀への変わり目直前には、機械製造業者、タバコ製造業者、現存するベアリング工場の前身となる建物も設立された。 世紀の変わり目頃、会社設立は高度な専門知識を踏まえ経営学上の考慮を必要とする新たなフェーズに入った。その一例がフルダ・ライフェン(ドイツ語版)(ゴム工場)である。ゲルンハウゼン出身の技術者グスタフ・ベッカーとレムシャイト出身の投資家モーリッツ・ハーゼンクレーファーは、新しい会社の設立地にフルダを選んだ。それは、鉄道への接続の良さと、この地方の賃金が慣例的に安いことが理由であった。このゴム工場の従業員数は、1901年の15人から、第一次世界大戦前には300人を超えるまでに増加した。木工機械に特化した機械製造業者クライン & シュティーフェル社もこの時代に、既に存在していた5つの機械製造業者に加えて設立された。 フルダの発展は、自動車修理工場(1866年)、ガス工場(1863年)、発電所(1912年)によっても促進された。公的な上水道は1892年から建設され、1903年から下水道が設けられた。1904年に最初の産業博覧会が開催された。 第一次世界大戦前の発展を要約する。 人口は、1852年の 8,900人から 23,226人にまで増加した。 1913年の住所録には、57社の工場が記されている。 1914年には、12社の紡績工場に 1,450人が働いていた。 ベリンガー琺瑯工場だけで 1,200人が働いていた。 5社の機械工場で 400人が働いていた。 5社の蝋製品工場の従業員は少数であった。 工場労働者は、合計約 4,000人であった。紡績業者は急速に重要性を失っていった。1880年には300社あったが、1914年にはわずか12社となっていた。
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