1850年代後半:体制崩壊と共和党の結党
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1854年、強い抵抗があったにもかかわらず、ヤング・アメリカの幹部でイリノイ州選出のスティーブン・ダグラス上院議員は、カンザス・ネブラスカ法を強引に成立させた。この法律はカンザス準州とネブラスカ準州の設置を決めるものであったが、これらの準州で奴隷制を認めるかどうかをめぐって激しい対立が生まれた。結局、これらの準州が州に昇格する際に奴隷州とするか自由州とするか(英語版)を住民の投票によって決定することとなり、これにより、法律の主目的ではなかったものの、住民が「住民主権」により奴隷制度を認めるか否かを決める制度が設立されることになった。 ジェームズ・ブキャナンは南北の融和を図って連邦奴隷法を通過させようとしたが、そのためにかえって民主党は分裂した。北部の民主党員の多くは、「住民主権」を唱え、奴隷を巡る連邦法は民主的でないとするスティーブン・ダグラスの側につき、ブキャナン等は北部出身であるにもかかわらず南部寄りだとして「ドーフェイス(英語版)」(小麦粉をこねて作った顔のように、簡単に反対勢力になびく人を指す侮蔑語)と呼ばれた。 奴隷問題を背景に大きな政界再編が起き、カンザス・ネブラスカ法の廃止と奴隷制反対を掲げて共和党が結党され、ホイッグ党は事実上、これに吸収された。民主党自体は生き残ったが、北部では多くの党員(及び1948年以降自由土地党に入党していた人々)が共和党に入党した。共和党は北部で民主党を圧倒し、1860年までに北部のほぼ全州を掌握して、選挙人団の多数を固めた。共和党は、ピアースやブキャナンなどのドーフェイスを含む北部の民主党員も、スティーブン・ダグラスやルイス・カスのような住民主権を主張する者たちも、皆すべて奴隷権力の共犯者だと批判した。そして、連邦政府は奴隷所有者に掌握されており、自由の進展を阻害していると主張した。 1860年の大統領選挙では共和党のエイブラハム・リンカーンが選出され、事前の危惧通り、内戦へと突入していくことになる。一方の民主党は、ブキャナン大統領の後継者選びで南北に分裂し、それぞれに候補者を指名する事態となり、結果として共和党の優勢に加担した。1860年4月、チャールストンの大学の講堂で行われた1860年民主党全国大会(英語版)において、奴隷制を強く支持し、南部諸州の独立を唱える急進的なファイア・イーター(英語版)に従う形で、南部民主党員の一部は退席した。その後6月にボルティモアで行われた大会でも、準州の住民が投票で否決したとしても準州で奴隷制を認めることを支持する決議案が否決されると、再びファイア・イーターに導かれて退席者が出た。北部の民主党員はイリノイ州選出のスティーブン・A・ダグラス上院議員を大統領候補に、ハーシェル・J・ジョンソン(英語版)元ジョージア州知事を副大統領候補として指名した。それに対し、南部の民主党員は、奴隷制度を支持するケンタッキー州選出で現職副大統領のジョン・C・ブレッキンリッジを大統領候補として、元オレゴン州知事のジョセフ・レーン(英語版)を副大統領候補として指名した。また、南部民主党員の一部は立憲連合党に入党し、その正副大統領候補であるテネシー州出身のジョン・ベル下院議長兼陸軍長官とマサチューセッツ州出身のエドワード・エヴァレット(いずれも旧ホイッグ党の有力指導者であった)を支持した。このような民主党の分裂は共和党の勝利を招き、エイブラハム・リンカーンが第16代合衆国大統領に選ばれた。ダグラスは全国を回って選挙運動を行い、一般投票の得票数では第2位につけたが、選挙人を獲得できたのはミズーリ州とニュージャージー州の2州のみだった。ブレッキンリッジは11の奴隷州を獲得し、選挙人選挙では2位だったが、一般投票の得票数では3位だった。
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