1850年法
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南部州からより実効ある法律を要求する声が上がり、バージニア州選出のアメリカ合衆国上院議員でアメリカ合衆国憲法制定に関わったジョージ・メイソンの孫であるジェイムズ・マレー・メイソンが起草した2つ目の逃亡奴隷法が1850年協定の一部として1850年9月18日に法制化された。この法の執行については特別のコミッショナーが連邦の巡回裁判所、地区裁判所、および準州の下級裁判所と共に競合管轄権を持ち、逃亡者は自分のために証言を許されず、陪審裁判も無かった。 法の執行を拒んだ保安官、逃亡者に逃げられた保安官、および黒人の逃亡を幇助した個人は処罰された。保安官は民警団を招集できた。原告勝訴としたコミッショナーには10ドル(2020年換算で301ドル)が支払われ、逃亡者勝訴とした場合には5ドル(2020年換算で151ドル)だった。この差は、もし原告勝訴なら被告を実際に南部に送還するためコミッショナーに追加の事務作業が発生するからだと説明された。逃亡の事実認定と逃亡者の同定は一方の証言だけで(ex parteに)決定された。奴隷が主人に返還された場合、奴隷を連れてきた者には奴隷1人あたり10ドル(2020年換算で301ドル)が支払われた。 この法律は厳しさ故に大規模に悪用され本来の目的を却って果たせなかった。奴隷制度廃止運動家が増え、逃亡者支援組織はより効率的となり、バーモント州(1850年)、コネチカット州(1854年)、ロードアイランド州(1854年)、マサチューセッツ州(1855年)、ミシガン州(1855年)、メイン州(1855年と1857年)およびウィスコンシン州(1858年)では新たな人身保護法が制定された。これらは司法官や判事が請求を認定することを禁じ、人身保護令状法を拡張しつつ逃亡者に陪審裁判権を認め、偽証を厳しく罰した。1854年、ウィスコンシン州最高裁判所は逃亡奴隷法を違憲と宣告するに至った。 サウスカロライナ州が後にアメリカ合衆国から脱退した際は、これらの州法に対する不満が理由の一つとされた。1850年法を実効あるものとする試みは多くの苦難を伴った。1851年ボストンにおけるトーマス・シムズおよびシャドラック・ミンキンスの逮捕、同年ニューヨーク州シラキュースにおけるジェリー・M・ヘンリーの逮捕、1854年ボストンにおけるアンソニー・バーンズの逮捕、1856年シンシナティにおけるガーナー家の2人の逮捕など、1850年逃亡奴隷法のもとで起こった多くの事件は、各州における奴隷制を巡る論争と恐らく同程度に、南北戦争を招く大きな要因になった。
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