1850年代初期および準州の組織化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/09/01 00:17 UTC 版)
「カンザス州の歴史」の記事における「1850年代初期および準州の組織化」の解説
カンザスにおける先住民族を定住させる広大な計画にも拘わらず、1850年までにアメリカ白人が不法にその土地に侵入し、その地域全体を開拓のために開放することを声高く要求した。やがて来る事件の前兆として、間もなくライリー砦を含む幾つかのアメリカ陸軍の砦が幾つかインディアン準州深く造られ、様々な西方へ向かう道の旅人を護衛した。 シャイアン族やアパラチー族はこの時もカンザス西部(現在はコロラド州)の土地について合衆国と交渉を続けており、1851年9月17日に条約に調印したが、先住民族に「恒久的に」約束した土地を取り上げる機運が既に作られつつあった。 ワイアンドット族はその土地と自治権が危険に曝されていることを認識し、1852年と1853年にインディアン準州内の自分達の区画に領土政府を創ろうとした。1853年、13人の代議員からなる集会を招集し、その領土の憲法が作られた。ウィリアム・ウォーカーという名のワイアンドット族がこの憲法に従って暫定首長に選ばれ、代議員1人が連邦議会に派遣された。しかし、カンザスは公式の準州ではなかったので、その代議員は連邦議会に受け入れられなかった(時間の経過と共に、ワイアンドット族によるこの動きは小さなものとなり、多くの種族は後にオクラホマ州となる土地に移った。)。
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