1851年、ルイ=ナポレオンのクーデター、国外追放
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「ヴィクトル・シュルシェール」の記事における「1851年、ルイ=ナポレオンのクーデター、国外追放」の解説
1851年、ルイ=ナポレオンがクーデターで実権を握り、皇帝に即位しナポレオン3世となると、クーデターに反対したシュルシェールは国外追放の処分を受けた。彼はスイス、ドイツ経由でベルギーに向かい、ブリュッセルにしばらく滞在した後、ロンドンに向かった。同じく1851年にベルギーに亡命し、その後、ジャージー島およびガーンジー島に移り住んだヴィクトル・ユーゴーを訪れ、交流を深めるようになった。1852年、12月2日のクーデターについて『12月2日の一連の犯罪』、翌53年には『12月2日の政府』を著した。 1852年には第二帝政の帝国憲法により、植民地における参政権の行使が禁止され、さらにアフリカ・インドの英国統治領からフランス植民地へ労働者を導入することになった(この年、米国ではハリエット・ビーチャー・ストウの『アンクル・トムの小屋』が出版された)。シュルシェールはこれについて『クーデターを起こした男たちと同盟を結ぶ英国の危険』(1854年) を著した。元老院政令により植民地に県会が置かれ、55年のゲイドン法令および57年のユッソン法令によりそれぞれマルティニークとグアドループに「労働警察」が置かれた。1859年にナポレオン3世が国外追放者に恩赦を与えたが、シュルシェールはこれを拒否した。 アメリカ合衆国では1859年に奴隷制廃止運動家のジョン・ブラウンが反逆罪で裁判にかけられ、絞首刑に処せられた。1861年に大統領に就任したエイブラハム・リンカーンが南北戦争で北部を指導し、63年に奴隷解放宣言を発した。一方、この2年後の65年にはクー・クラックス・クランか結成され、ジャマイカではポール・ボーグルが率いる黒人の反乱事件「モラント湾の暴動(ジャマイカ事件)」が発生した。
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