1852年から1853年にかけての最初の訪問
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「日米関係」の記事における「1852年から1853年にかけての最初の訪問」の解説
詳細は「黒船来航」を参照 1852年11月、マシュー・ペリー提督はアメリカ政府全権代表として日本と通商条約について交渉するため、艦隊を率いてバージニア州ノーフォークを出発した。 1853年7月8日、ペリーは黒い蒸気フリゲートである「ミシシッピ」、「プリマス」、「サラトガ」、「サスケハナ」を江戸(現在の東京都区部)の近距離にある浦賀(現在の神奈川県横須賀市東部)に停泊させ、江戸幕府(徳川政権)の代表と会見した。 日本全権代表として臨んだ徳川幕府側は鎖国令でオランダ人との制限貿易を許可していた長崎に出向くことを要請した。ペリーは出発を拒否し、もし拒否した場合、軍事力を行使することもちらつかせながら、ミラード・フィルモア大統領の親書を渡すことを要求した。日本は数世紀にわたって近代技術を排斥しており、日本の軍事力ではペリーの艦隊に歯が立たなかった。これらの「黒船」はのちに日本において「西洋の科学技術の脅威」と「植民地主義の象徴」となった。江戸幕府はペリーの艦隊による砲撃を回避するためには来航を容認し受け入れざるを得なかった。1853年7月14日、ペリーは久里浜(現在の横須賀近郊)に移り使節団に親書を渡し、彼の艦隊は清へ出発した。ペリーは再訪日することを約束した。
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