1850年から1855年のアフリカ旅行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 06:25 UTC 版)
「ハインリヒ・バルト」の記事における「1850年から1855年のアフリカ旅行」の解説
プロイセンからロンドン、ウェストミンスターに派遣された大使であるクリスティアン・ブンゼン(英語版)は、ハインリヒ・バルトや同国の天文学者、アドルフ・オフェルヴェッヘ(英語版)などの学者らが、サハラ砂漠の探検家、ジェイムズ・リチャードソン(英語版)の冒険に加わることを奨励した。リチャードソンは、中央及び西スーダーンの諸邦と交易を開始するよう、英国政府から選ばれていた(スーダーンとは、サヘル地域に広がる黒人国を指す当時の地理的概念)。一行は1849年末ごろにマルセイユを発ち、1850年初めごろにトリポリからスーダーンに向けてサハラ砂漠縦断を開始した。しかしながらこの冒険は多大な困難を伴うものだった。 原因不明の病気でリチャードソンが1851年3月に亡くなり、オフェルヴェッヘも1852年9月に亡くなったため、残されたバルトは科学的な任務を単独で続けた。1851年にハウサ諸国の一つ、アダマワ(英語版)を訪れ、1855年9月にトリポリに帰着した。彼が旅した範囲は、北はトリポリから南はナイジェリアのアダマワまで、緯度にして24度を超え、東はチャド湖とバギルミ王国(英語版)から西はトンブクトゥまで、経度にして20度を超える。総距離は 19,000 km に及んだ。バルトは、彼が訪れた国々の地形、歴史、文化、言語、資源を詳細に研究した。彼のアフリカ探検家、アフリカ史研究家としての成功は、彼の忍耐強い性格と学識に基づくものであった。 バルトは、アフリカの諸民族の歴史や文化に興味があった。商業的利用の可能性は二の次だった。彼の日記は、書面化の度合いに問題があって、19世紀のスーダーン・アフリカの研究の史料としては価値がないものとなってしまった。各地方に伝わる口承伝統に関心を払ったヨーロッパ人はバルトがはじめてではないが、バルトは歴史研究にそれを用いること及びその方法論について真剣に考えた最初の人物の一人であった。バルト以前に西アフリカ内陸部にやってきた探検家としては、たとえば、ルネ・カイエやディクソン・デンハム(英語版)、ヒュー・クラッパートンといった人々がいたが、彼らはいずれも学問的な知識は持ち合わせておらず、バルトは当地を訪れて研究した正真正銘はじめての学者である。 バルトはアラビア語やいくつかのアフリカの言葉(フラニ語、ハウサ語、カヌリ語)を流暢に話した。各地の歴史を調査する能力もあり、特にソンガイ王国の歴史を明らかにした。また、ボルヌ王国のシャイフ・ウマル・ブン・ムハンマド・カーネミー(英語版)や、トンブクトゥのクンタ氏族のシャイフ・スィーディー・アフマド・バッカイ(ドイツ語版)など、多くの現地の学者や支配者と近しい関係を作り上げた。ハウサランドのカツィナ、ソコトでも友人を作った。トンブクトゥでバルトは、仲良くなったアフマド・バッカイのおかげで、自分の家を持ってそこに滞在することができ、身に危険を及ぼそうとする者たちからクンタ氏族の庇護を受けることができた。 ロンドンに帰還するとバルトは、旅の詳細をつづった旅行記『北部及び中部アフリカにおける旅と発見』五巻本、3500ページ余りを書き、英語版とドイツ語版とを同時に出版した(原題: Reisen und Entdeckungen in Nord- und Centralafrika (Travels and Discoveries in North and Central Africa; 1857–1858) )。同書にはバルト自身が描いたスケッチに基づいてヨハン・マルティン・ベルナッツ(英語版)が制作した彩色図版が含まれている。同書は同種の旅行記の中でも最も質の良いものであると考えられた。チャールズ・ダーウィンの著書にも引用されたことがある。また、21世紀現代のアフリカ史研究者に、今でも利用されており、アフリカの文化に関する科学的分析にとって重要な資料であり続けている。
※この「1850年から1855年のアフリカ旅行」の解説は、「ハインリヒ・バルト」の解説の一部です。
「1850年から1855年のアフリカ旅行」を含む「ハインリヒ・バルト」の記事については、「ハインリヒ・バルト」の概要を参照ください。
- 1850年から1855年のアフリカ旅行のページへのリンク