カムデン、ポイズンスプリング、マークスミルズ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/02 14:02 UTC 版)
「ジェンキンスフェリーの戦い」の記事における「カムデン、ポイズンスプリング、マークスミルズ」の解説
プライス隊にはサミュエル・B・マクシー准将の指揮するテキサス騎兵2個旅団が合流しており、スティール隊がカムデンを占領した直後に自分の騎兵隊とともにカムデンに現れた。騎兵7個旅団を持って防御に入ったスティール隊の包囲戦を始めた。ただし、勢力ではスティール隊がプライスの南軍を上回っていた。 スティールはリトルロックとパインブラフの補給所から物資の補給を受けることと、近くの田園部から食料を集められることを期待した。しかし、南軍のマーマデューク准将の騎兵隊1,700名と、マクシー准将の追加騎兵隊1,600名が、北軍ジェイムズ・M・ウィリアムズ大佐の指揮する資料調達遠征隊を破ったときに、補給の可能性を否定された。ウィリアムズ隊はカムデンに戻ってさえいれば任務に成功したはずだった。南軍はポイズンスプリングの戦いで198両の輜重隊のうち170両の荷車と役畜を捕獲し、残りの荷車を破壊した。ある史料では、南軍がこの4月18日の戦闘で北軍の護衛部隊1,170名の歩兵と騎兵および大砲4門の「大半」を殺すか捕獲したと述べている。別の史料では、北軍が301名の損失を出し、その大半が戦死または不明となっていた。戦場の報告書に拠れば、南軍はこの戦闘で護衛部隊にいたアフリカ系アメリカ人兵士が降伏しようとしているのを殺した。ポイズンスプリングで殺されも捕まえられもしなかった北軍の兵士が何とかカムデンに戻ってきたとき、スティールは、バンクス将軍が4月8日にシュリーブポートまで約40マイル (64 km) のマンスフィールドの戦い(プレザントグラブの戦いまたはサビーン交差点の戦いとも呼ばれる)で敗れた後、後退を始めたことを知った。 バンクスはマンスフィールドの戦いの翌日におきたプレザントヒルの戦いで、自軍の損失1,369名に対し、南軍に1,626名の損失を出させ、戦術的には勝利していた。その軍隊は南軍を上回っていたが、バンクスはそうでなければアレクサンドリアへの撤退を続けただろうと考えた。一方、ポーター提督の戦隊はレッド川を下ってミシシッピ川まで戻っていた。その間川岸からほとんど切れ目なく南軍からの銃撃を受け続けた。ポーターは、バンクスが撤退しただけでなく、その船隊がレッド川の異常なくらい低水位のために座礁する危険性もあったことから、撤退を強いられていた。工兵が川をうまく堰き止めて、ポーターの艦船は5月13日までに浮上して脱出できたが、川岸から南軍の攻撃を受ける船隊を守るために、バンクス軍はポーターの戦隊が浮上するまでアレクサンドリアで待機するしかなかった。艦船が安全に川を下ったときになって、バンクス軍は如何なる方向にも動けるようになった。 4月23日、バンクスからスティールに伝言が届き、バンクス軍に合流してくれれば、再度シュリーブポートに向かって移動できることになると伝えてきたとき、スティールはバンクス軍と合流できる状態にないと返答した。南軍の騎兵隊に直面しているだけでなく、、スターリング・プライスが歩兵隊を戻し、さらにカービー・スミス指揮下の歩兵隊も戻っているとも伝えた。カービー・スミスは、プレザントヒルの戦いでリチャード・テイラー将軍の下にあった歩兵隊の幾らかを分けて、プライス隊に合流させていた。トマス・J・チャーチル准将のアーカンソー師団とモスビー・パーソンズ准将のミズーリ師団がプライスの指揮下に戻っていた。その後、ジョン・G・ウォーカー少将のより大きなテキサス師団が、カービー・スミスと共に合流していた。カービー・スミスは、スティールが大きな脅威であり、4月9日のプレザントヒルの戦い後に後退を続けているバンクスよりも大きな目標だと判断した。カービー・スミスはまずスティール隊を破壊して、その後にバンクス軍に戻って陥れることができると考えた。テイラーはこの判断に強く反対し、即座にバンクス軍への攻撃を望んだ。それでもテイラーはカービー・スミスの作戦を変更させることができなかった。バンクスがアレクサンドリアで海軍を待っているときに、カービー・スミスはその判断が正しく、実行する時間があるということをさらに確信するようになった。 4月25日、マークスミルズの戦いと呼ばれる戦闘で、プライスの下で活動するジェイムズ・F・フェイガン准将の総指揮下の南軍騎兵2個旅団が、北軍の211両ないし240両の輜重隊と護衛部隊1,300名を捕まえた。この部隊はスティールがパインブラフの補給所から物資を運ぶために派遣したものだった。5時間の戦闘後に、北軍兵1,400名ないし1,700名のうち僅か150名が逃亡した。フェイガン隊はこの戦闘で約300名の損失を出した。報告書に拠ると、その兵士が戦闘の終わったときに負傷したアフリカ系アメリカ人兵士を殺したとしている。南軍は次のジェンキンスフェリーの戦いで仕返しをされることになった。
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