カムチャツカへ連行とは? わかりやすく解説

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カムチャツカへ連行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 09:01 UTC 版)

高田屋嘉兵衛」の記事における「カムチャツカへ連行」の解説

兵衛観世丸に乗り干魚積んで択捉島から箱館に向かう途中公文書届けるため泊に寄港しようとしていたが、文化9年8月13日1812年9月18日)朝、国後島ケラムイ岬の沖合ディアナ号拿捕された。嘉兵衛は、リコルドにゴローニン生きていることと、カムチャツカに行く用意があることを伝えた。そして、弟の嘉蔵金兵衛事件解決のため「掛合〔交渉〕も致し候」と手紙書き送り食料衣服ディアナ号積み替え水主金蔵平蔵吉蔵文治アイヌシトカとともにカムチャツカ半島ペトロパブロフスク・カムチャツキー連行された。 ペトロパブロフスクで、嘉兵衛たちは役所改造した宿舎でリコルドと同居した。そこで少年・オリカと仲良くなり、ロシア語学んだ12月8日和暦)、嘉兵衛寝ているリコルドを揺り起こし事件解決方策話し合いたいと声をかけた。嘉兵衛ゴローニン捕縛されたのは、フヴォストフが暴虐限りを尽くしたからで、日本政府蛮行事件謝罪文書提出すれば、きっとゴローニンたちは釈放されるだろうと説得した翌年2、3月に、文治吉蔵シトカ病死。嘉兵衛キリスト教葬式を行うというロシア側の申出断り、自ら仏教アイヌそれぞれの様式で3人の葬式行ったその後、みずからの健康を不安に感じた兵衛情緒不安定になり、リコルドに早く日本へ行くように迫った。リコルドはこのときカムチャツカ長官任命されていたが、嘉兵衛提言従い、みずからの官職をもってカムチャツカ長官名義謝罪文書き上げ、自ら日露交渉赴くこととした。

※この「カムチャツカへ連行」の解説は、「高田屋嘉兵衛」の解説の一部です。
「カムチャツカへ連行」を含む「高田屋嘉兵衛」の記事については、「高田屋嘉兵衛」の概要を参照ください。

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