カムデンからの撤退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/02 14:02 UTC 版)
「ジェンキンスフェリーの戦い」の記事における「カムデンからの撤退」の解説
スティールはこのとき物資が完全に不足し、数的に劣勢であり、カムデンで包囲される危険性にあった。上官の合意を得た後は、他に合理的な選択肢が無かった。4月26日夜と27日早朝、リトルロックに向けた夜の退却を命じた。南軍はその日遅くまでスティール隊の動きを感知できなかった。スティール隊はウォシタ川を渡るために携行してきた舟橋を使った。スティール隊がカムデンから撤退したことが分かれば直ぐに追ってきたであろう南軍に対して、幸先良いスタートが切れた。まず4月28日朝に水かさが増し、橋の無いウォシタ川渡るために、南軍は筏の橋を建設する必要があった。この遅れのためにスティール隊はさらに距離を稼げたが、雨のために動きが遅らされた。南軍も雨と戦っていたが、その追及を遅らせるような多くの荷車も装備も持っていないのも事実だった。 一方、4月28日、プライスはサミュエル・マキシーの騎兵2個旅団の師団をオクラホマとテキサスに送り返し、報告があった別の北軍部隊による脅威に対応させることにした。マークスミルズで勝利した南軍の指揮官フェイガン准将は、独立した動きをしていたが、別の目標に沿った動きを認めた命令を満たしていなかった。最初の目標であるパインブラフの北軍補給所の破壊ができなかった。これはおそらく、ウォシタ川の支流であるセイリーン川が水量を増していたために渡れなかったためだった。フェイガンは、カムデンとリトルロックの間の補給線と通信線を横切る陣地を占領するようプライスに命令されていたが、それもできなかった。おそらくフェイガンも自隊のために食料と飼料を探していた。フェイガンはプライスと直接対話しておらず、カムデンを出たスティール隊の動きを知る位置に居なかったが、プライスは4月29日に、フェイガン隊が北軍の退路を塞ぐ位置にいないことを理解した。フェイガンとその3,000名の部隊は4月30日にジェンキンスフェリーに到着することになり、戦闘に参加するには遅すぎることとなった。 スティールはカムデンを出てからプリンストンを通って真北に進んだ。その部隊は、セイリーン川に近づくときにマーマデュークの騎兵隊が追いついてきて嫌がらせを受けていた。スティール隊が水かさの増した川のジェンキンスフェリーに到着したとき、渡河するために舟橋を建設するために停止しなければならなかった。カービー・スミスとプライスの下に残っていた南軍10,000名がスティール隊に追いついた。このときスティール隊も当初から減って約10,000名になっていた。南軍は4月30日早朝に北軍後衛部隊に攻撃を掛けて、戦闘を開始した。スティールの騎兵隊は4月29日夜にセイリーン川を渡すことができていた。このときスティール隊は、まずカービー・スミスの部隊と戦い、その後に歩兵隊が荷車、大砲と残る兵士を浮橋で川を渡す努力を終わらせる必要があった。
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