ポトマック川での睨み合い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 01:46 UTC 版)
「ゲティスバーグからの撤退」の記事における「ポトマック川での睨み合い」の解説
ミードの歩兵部隊は7月7日の朝以降懸命に行軍していた。スローカムの翼は初日にリトルズタウンからウォーカーズビルまで29マイル (46 km) を進んだ。第11軍団の一部はエミッツバーグからミドルタウンまでおよそ30ないし34マイル(48ないし54 km)の距離を進んだ。7月9日までにポトマック軍の大半はローラーズビルからブーンズバラまでの5マイル (8 km) の前線に集結した。他の北軍部隊はメリーランド高地とウェインズバラで外側側面を守る位置にあった。これらの地点に到着するのは、7月7日の篠突く雨が道路を泥沼に変えていたので大変だった。第3軍団と第5軍団は長い回り道を採る必要があったが、距離が伸びた欠点はボルティモア・アンド・オハイオ鉄道によって北軍補給センターに接続されるフレデリック近傍の道路によって相殺され、また舗装された国道を含み優れた道路条件の恩恵もあった。 軍隊の精神はもっともやけくその戦闘をやりに行くというようなものだ...兵士達は今やリー軍が無敵ではなく、ポトマック軍はもし許されるならば勝利を得られることを知っている。我が軍は...反乱軍をポトマック川に追い落とすべきだ。 Augustus Van Dyke, 14th Indiana, letter to his father 南軍の後衛は騎兵隊にうまく遮蔽されて7月7日朝にヘイガーズタウンに到着し、防御陣地を構築した。7月11日までにその右手はダウンズビル近くでポトマック川に接し、左手はヘイガーズタウンの約1.5マイル (2.4 km) 南西までの高地に6マイル (10 km) の前線を占めそこからウィリアムズポートまでの唯一の道路を遮蔽した。コノコチーグ・クリークが西から発せられるかも知れない攻撃からこの陣地を守っていた。南軍は頂部に幅6フィート (1.8 m) の胸壁を造り密に大砲を据えた見栄えのする土盛りを造り上げ、包括的に十字砲火を浴びせることのできる地帯を作った。ロングストリートの軍団が前線の右端に、ヒル軍団が中央に、イーウェル軍団が左に付いた。これら工作物は北軍が前面に到着する直前の7月12日朝に完成した。 ミードは7月12日に北軍総司令官ヘンリー・ハレック宛てに電報を打ち、翌日「妨げられるようなことが起こらなければ」攻撃するつもりだと伝えた。この日の夜、ミードは再度部下達と作戦会議を開いた。7人の上級将官の中でジェイムズ・ワズワース准将とオリバー・O・ハワード少将だけが南軍の防御工作物に攻撃することに賛成した。反対意見はそれまで行われた偵察が不足していることに集中した。7月13日、ミードとハンフリーズは自らも敵陣を視察し、軍団長たちにも7月14日朝に威力偵察を行うよう命令した。この1日の延期は、ミードの政敵が作戦終了後に酷評した行動の遅さのもう一つの例だった。ハレックはミードにそれが「作戦会議は決して戦わないという諺」だと告げた。
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