ポトチャリでのボシュニャク人男性の分離と殺害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 01:07 UTC 版)
「スレブレニツァの虐殺」の記事における「ポトチャリでのボシュニャク人男性の分離と殺害」の解説
7月12日の朝より、セルビア人兵士は、避難民の中から男性を集めて複数個所に分散拘留し始めた。避難民が北のボスニア政府支配地域へ向かうバスへ乗車を始めると、乗り込もうとしていた従軍可能年齢の男性をむりやり引き離した。時には年少者や高齢者も引き離しの対象となった。この男性らは「ホワイト・ハウス」と呼ばれていた建物に連れて行かれた。早くも1995年7月12日夕方には、オランダ軍のフランケン(Franken)少佐は、ボスニア側への難民引渡しの場所であったクラダニ(Kladanj)に到着した人の中に、男性が一人もいないことを聞かされた。 1995年7月13日、オランダ軍部隊は、隔離された男性をセルビア人兵士が殺害している明らかな形跡を目撃した。たとえばファーセン(Vaasen)伍長によると、2人のセルビア人兵士が1人の男性を「ホワイト・ハウス」の裏へと連れて行く姿を目撃した。その後銃声が聞こえ、2人のセルビア人兵士だけが戻ってきた。別のオランダ軍士官もセルビア人兵士が非武装の男性の頭を一撃で打ち抜くのを目撃したほか、午後中、1時間あたり20から40回の銃声を耳にした。複数の男性が「ホワイト・ハウス」の裏へ連行され戻って来ていないという兵士からの報告を受けてスレブレニツァ地域の国連軍事監視団(United Nations Military Observer; UNMO)のヨーセフ・キンゴリ(Joseph Kingori)大佐は調査に向かった。現場に近付いた大佐は銃声を聞いたが、セルビア人兵士によって止められ、何が起きているかは確認できなかった。 処刑の一部は夜間にアーク灯の明かりの下で行われ、工事用のブルドーザーによって遺体はまとめて遺棄された。フランスの警察官ジャン=ルネ・リュ(Jean-René Ruez)がボシュニャク人から集めた証拠によると、被害者の一部は生きたまま埋められた。また、セルビア人兵士たちは難民を好きなように虐待・殺害し、道路には遺体が散乱していた。難民たちの一部は、鼻や唇、耳をそぎ落とされるのを逃れるために自殺を図り、また大人たちは彼らの子どもが殺害されるのをなすすべなく見守るしかなかった。
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