第1師団の攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 01:00 UTC 版)
総攻撃開始に先立つ19日午前6時、友安治延少将率いる後備歩兵第1旅団(第1師団の指揮下として右翼隊を形成)は目標の大頂子山に攻撃を開始した。一部が敵前至近距離に迫ったものの猛烈な反撃を受け撃退された。夜半になり夜襲を仕掛けるも戦況は好転しなかった。20日には歩兵第二旅団(旅団長:中村覚少将)基幹の左翼隊は水師営南方高地までは順調に進んだがここで敵の抵抗にあい、それでも水師営の一部と同西溝の猛攻の末22日に占領。夜半には93高地を夜襲で奪取した。 明けて21日、師団長の松村務本中将は司令部を高崎山に移す。歩兵第1旅団(旅団長:山本信行少将)基幹の中央隊が第一師団の攻略目標である南山坡山及びその北端の鉢巻山を総攻撃。22日までにさしたる抵抗もなく占領するがまもなく激しい逆襲が行われ白兵戦が幾度となく展開された。日本側は増援を送ろうにも鉢巻山へ至るには敵の寺児溝北方陣地の麓を通らねばならず、占領部隊への増援、補給は至難だった。補給線の確保も失敗し兵士たちは匍匐前進で弾薬や糧食を運ばなければならなかった。
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第1師団の攻撃
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19日午前8時45分、攻城砲兵は敵牽制の砲撃を開始、午後1時には攻略目標である龍眼北方、水師営両堡塁に砲撃を集中した。午後5時頃、第1師団左翼隊(歩兵第2旅団)は水師営第1堡塁への突撃を開始した。しかし外壕の突破に手間取り大損害を被る。中央隊(歩兵第1旅団)は順調に進撃し、目標の南山坡山の北角を占領する。右翼隊(後備歩兵第1旅団)はこの攻撃より目標に加えられた203高地攻撃を任される。しかしここも敵の猛射を浴びて大損害を被ってしまう。 20日、苦戦する左翼隊に第9師団が龍眼北方堡塁の占領に成功したという一報が入る。奮起した同隊は第4堡塁へ突撃を敢行しこれを占領、更に攻城砲兵が第1堡塁へ砲撃を開始し敵は沈黙、午前11時には水師営の全堡塁は日本軍の手に落ちた。中央隊も山頂で白兵戦をしつつも午後5時には南山坡山を占領した。 しかし203高地攻略は容易ではなく、なんとか山頂の一角を占領しつつも直後にロシア軍の大逆襲が始まり、午前5時には山頂を奪われたばかりか第2線も奪われ後備歩兵第16連隊長も負傷した。その後第1師団は師団砲兵の総力を挙げて203高地を砲撃し、前線に幾度となく増援を送るも道中で敵陣地からの攻撃を受け前線に辿り着いた者はいなかった。突撃は翌21日も行われたが効果がなく、結局は攻撃を断念する。担当した右翼隊の残存兵力は310名にまで激減していた。
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第1師団の攻撃
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第1師団では左翼隊の歩兵第2連隊が敵散兵壕の動揺を捉え突入しこれを制圧。ここから松樹山へ坑道掘進を開始する。ロシア側も坑道を掘り、爆薬を仕掛けて日本側の坑道を破壊するなどで抵抗した。29日になるとロシア軍は逆襲に転じ午前7時に散兵壕を奪取される。第1師団は直ちに逆襲に転じて午後1時30分にはこれを奪い返す。 翌30日、攻城砲兵の事前砲撃の後、第2連隊は松樹山堡塁への突撃を開始した。周囲からの砲火を浴びながら連隊は敵塁の真下まで進出するが外壕の突破に手間取っている間に大損害を被りやむなく撤退する。そのため外壕外岸からの坑道作業に入るが攻撃準備完了まで期日を要することになる。
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