第1師団長時代から参謀次長時代までとは? わかりやすく解説

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第1師団長時代から参謀次長時代まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 03:58 UTC 版)

真崎甚三郎」の記事における「第1師団長時代から参謀次長時代まで」の解説

1929年7月1日からは第1師団長に任命された。 1931年昭和6年8月、本来なら真崎関東軍司令官任命される順番であったが、本庄繁関東軍司令官任命され真崎台湾軍司令官任命された。 1932年昭和7年1月犬養内閣陸軍大臣であった荒木貞夫計らい参謀次長就任した皇族である閑院宮載仁親王参謀総長であったので、慣例にしたがって真崎参謀本部取り仕切ったこの頃から荒木とともに国家革新を図る皇道派形成された。派閥勢力伸張図り大尉クラス青年将校中心に信望担ったが、党派的な行動が反発を買い統制派との対立発生した満州事変原因を、国家革新熱病浮かれ軍部幕僚連が、理想国家満州作り、そこから逆に日本及ぼして日本改造するために引き起こされたものと見なしていた真崎は、事変不拡大満州事変満洲国内でおさめることを基本方針として収拾あたった統制派皇道派も対ソ戦に備えていたことは同じだが、そのための手段が異なっていた。統制派総動員体制真崎から見れば国家社会主義体制)の構築北支進出狙っていたが、皇道派満洲国安定・「皇道精神」に基づく体制構築対中関係安定・対列強関係修復目指していた。 第一次上海事変の処理では、軍の駐留紛争のもととして一兵も残さず撤兵した。 熱河討伐では、軍の使用政府の政策として決定し天皇裁可経てから実行されるという建前から、万里の長城越えて北支への拡大断固として押さえた有利な戦機見逃してカ月以上も出動押さえたとして、拡大派や国家革新推進派からは非難浴びた満州事変後の軍の動きに不満を持つ昭和天皇から真崎繰り返し叱責された。通常間を置かず裁可される上奏も、真崎場合には必ず数日留め置かれた。真崎天皇へのとりなし梨本宮守正王伏見宮博恭王ルート通してこころみたがうまくいかず、最終的に自分重臣元老(に加え天皇からも)誤解されていると上奏したところ、天皇は「非常な御不興」を示し面目を失った。 さらに原田日記によると、真崎当時第5旅団であった東久邇宮稔彦王対し、「天皇陛下参謀本部意見理解されるよう助力して欲しい」と依頼し、それを筋違いであるとして拒否されると、「ここの宮さん国家観念に乏しい」と不満を述べている。 真崎平野助九郎石丸志都磨等を通して、軍の機密情報青年将校漏洩していたため、省部の中堅将校から信頼失った1933年昭和8年6月陸軍大将軍事参議官となった

※この「第1師団長時代から参謀次長時代まで」の解説は、「真崎甚三郎」の解説の一部です。
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