第1師団長時代から参謀次長時代まで
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「真崎甚三郎」の記事における「第1師団長時代から参謀次長時代まで」の解説
1929年7月1日からは第1師団長に任命された。 1931年(昭和6年)8月、本来なら真崎が関東軍司令官に任命される順番であったが、本庄繁が関東軍司令官に任命され、真崎は台湾軍司令官に任命された。 1932年(昭和7年)1月、犬養内閣の陸軍大臣であった荒木貞夫の計らいで参謀次長に就任した。皇族である閑院宮載仁親王が参謀総長であったので、慣例にしたがって真崎が参謀本部を取り仕切った。この頃から荒木とともに国家革新を図る皇道派が形成された。派閥の勢力伸張を図り、大尉クラスの青年将校を中心に信望を担ったが、党派的な行動が反発を買い統制派との対立が発生した。 満州事変の原因を、国家革新の熱病に浮かれた軍部の幕僚連が、理想の国家を満州に作り、そこから逆に日本に及ぼして日本を改造するために引き起こされたものと見なしていた真崎は、事変不拡大・満州事変は満洲国内でおさめることを基本方針として収拾にあたった。統制派も皇道派も対ソ戦に備えていたことは同じだが、そのための手段が異なっていた。統制派が総動員体制(真崎から見れば「国家社会主義」体制)の構築・北支進出を狙っていたが、皇道派は満洲国の安定・「皇道精神」に基づく体制構築・対中関係安定・対列強関係修復を目指していた。 第一次上海事変の処理では、軍の駐留は紛争のもととして一兵も残さず撤兵した。 熱河討伐では、軍の使用は政府の政策として決定し、天皇の裁可を経てから実行されるという建前から、万里の長城を越えて北支への拡大を断固として押さえた。有利な戦機を見逃して二カ月以上も出動を押さえたとして、拡大派や国家革新推進派からは非難を浴びた。 満州事変後の軍の動きに不満を持つ昭和天皇から真崎は繰り返し叱責された。通常間を置かず裁可される上奏も、真崎の場合には必ず数日留め置かれた。真崎は天皇へのとりなしを梨本宮守正王や伏見宮博恭王のルートを通してこころみたがうまくいかず、最終的には自分が重臣元老(に加え天皇からも)誤解されていると上奏したところ、天皇は「非常な御不興」を示し面目を失った。 さらに原田日記によると、真崎は当時第5旅団長であった東久邇宮稔彦王に対し、「天皇陛下が参謀本部の意見を理解されるよう助力して欲しい」と依頼し、それを筋違いであるとして拒否されると、「ここの宮さんは国家観念に乏しい」と不満を述べている。 真崎は平野助九郎、石丸志都磨等を通して、軍の機密情報を青年将校に漏洩していたため、省部の中堅将校から信頼を失った。 1933年(昭和8年)6月、陸軍大将、軍事参議官となった。
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