1862年春 - ハンプトン・ローズでの引き分け
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/28 19:06 UTC 版)
「ハンプトン・ローズ海戦」の記事における「1862年春 - ハンプトン・ローズでの引き分け」の解説
続く2ヶ月の間、モニターを戦闘に引きずり出すべくバージニアは数回の単艦出撃を敢行した。たいていの日、バージニアはクレイニー島 (Craney Island) かシーウェルズ・ポイントに向けてエリザベス川をゆっくりと動力航行で下った。ハンプトン・ローズの向こうには、南軍の船をモンロー砦の方へおびき出そうと、モニターおよび莫大な数の艦船が待ち受けていた(※?)。 北軍の計画はバージニアを都合のよい水域に引きつけることであった。モニターはどうしても避けようがない場合を除いて戦いに参加しないよう、大統領命令を受けていた。合衆国海軍省 (The Union Navy Department) はバージニアを倒すという至急の目的のため、数隻の大型蒸気船を賃借していた。バージニアが海に乗り出してきたところを、水面ぎりぎりの甲板の両端に大型蒸気船で乗り上げ、そして望むらくは、そのまま沈めてやる。そういう計画であった。(※?) バージニアはモニターを戦いに誘い出すために二度ハンプトン・ローズ侵入を敢行したが、大統領命令のためモニターは挑戦には応じなかった。 予期されていた海戦は現実化しなかった。モニターとバージニアの対決は二度と起こらなかった。
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