1862年のケンタッキー方面作戦とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 1862年のケンタッキー方面作戦の意味・解説 

1862年のケンタッキー方面作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/31 01:54 UTC 版)

ペリービルの戦い」の記事における「1862年のケンタッキー方面作戦」の解説

境界州であるケンタッキー州南部州テネシー州バージニア州、および北部州イリノイ州インディアナ州オハイオ州の間に位置して、その位置故にまたオハイオ川など重要な川の支配のために、両軍欲しがるところとなった1861年9月ケンタッキー州生まれエイブラハム・リンカーン大統領はその私信で「私はケンタッキー州を失うことが戦争全体を失うことに近いものになると思う」と書いていた。 戦争初期州内対立する見解支配巡って競い合い州議会は公式に中立宣言した9月3日南軍レオニダス・ポーク少将ミシシッピ川下流支配のために重要と考えたケンタッキー州コロンバス占領したのに対し2日後には北軍ユリシーズ・グラント准将が、ケンタッキー州パデューカ占領したときに、ケンタッキー州中立初め破られた。これ以降両軍共にケンタッキー州中立宣言尊重することは無かったケンタッキー州合衆国から脱退することは無かったが、1861年11月暫定的な南軍州都がボウリング・グリーンに置かれた。このことは南軍諸州によるケンタッキー州認知となり、南軍旗にはケンタッキー州を表す星が1つ加えられた。 ケンタッキー州侵入主導権南軍東テネシー方面軍指揮官エドマンド・カービー・スミス少将がまず取ったスミスはその作戦で、補給物資調達新兵募集テネシー州から北軍注意を逸らすこと、およびケンタッキー州南軍であることの主張ができると考えたケンタッキー州新兵募集したいという彼の熱望幾らかは、ジョン・ハント・モーガン大佐による1862年7月行われた騎兵襲撃成功して促進された。モーガンビューエル軍の後方地帯深く分け入りビューエル軍やワシントンD.C.をかなり驚かせた。モーガン襲撃中に歓喜迎えられ支援されもし、さらに900名の部隊300名のケンタッキー人加えた。彼はスミス自信ありげに「州全体確保できる25,000名や30,000名は直ぐに入隊するはずだ」と約束したブラッグ様々な選択肢があり、ミシシッピ州コリンスを再奪取すること、あるいは中部テネシー州を通ってビューエル軍に対抗することなどが考えられた。スミス増援要求気に掛かっており、そのミシシッピ軍スミス軍と合流させることにした。ミシシッピ州テューペロからアラバマ州モービルモンゴメリー経由してテネシー州チャタヌーガに至る複雑な鉄道経路で3名の歩兵移動させた。物資荷馬車騎兵、および砲兵ジョージア州ローム通って陸路移動させた。ブラッグ西部戦線上級将軍だったが、アメリカ連合国大統領ジェファーソン・デイヴィスは、スミス東テネシー方面軍独立指揮系統とさせ、バージニア州リッチモンド首都直接報告させるようにしたので、このことが作戦の間のブラッグ難しくさせた。 スミスブラッグ1862年7月31日チャタヌーガ会見しケンタッキー方面作戦作戦練った新しく創設されケンタッキー軍にはブラッグ軍の2個旅団加えて21,000名とし、スミス指揮で北のケンタッキー州入りカンバーランド渓谷北軍守備隊対処することとした(ブラッグ軍は長旅疲れており直ぐに攻撃的な作戦開始できなかった)。その後スミスブラッグの所に戻って合流しビューエル軍の後に回り込んで、その供給線を守る戦いを強いる。グラントビューエル軍を北ミシシッピから補強しようとした場合スターリング・プライスアール・ヴァン・ドーン少将小さな部隊がこれに対処するブラッグスミスの軍が合流した場合上官であるブラッグスミス直接指揮下に置く。ビューエル軍を破ることができると仮定してブラッグスミス軍隊ケンタッキー州行軍し地元住民歓迎される北軍残って居ればケンタッキー州会戦行って倒しオハイオ川南軍前線にする、という作戦だった。 ケンタッキー方面作戦作戦大胆だ危険性もあり、当初指揮系統統一されていない複数軍隊の完全な協働必要だったデイヴィス大統領からはケンタッキー州を奪れという圧力があったものの、ブラッグはほとんど直ぐに考え直し始めたスミスケンタッキー州一人業績上げることが個人的な栄誉に繋がることを予測し直ぐにブラッグとの同意事項放棄したスミスはその意図に合うようにブラッグ欺き表向きカンバーランド渓谷への遠征のために2個旅団要請した8月9日スミスブラッグに、同意事項破りつつあり、カンバーランド渓谷迂回して、そこには北軍守備兵無効化する小さな牽制部隊残し北へ進むつもりだと報せた。ブラッグスミス同意事項敬意払わせることができず、その注意ナッシュビル代わりにレキシントンに向かうことに集中させ、スミスにはビューエル軍がスミス軍を追跡してブラッグ軍とスミス軍が合流する前に個別撃破する可能性があることを忘れるなと注意したスミス8月13日ノックスビルから21,000名の軍隊で北に進発し、ブラッグスミスレキシントン到着する直前8月27日チャタヌーガ出たこの方作戦の開始ロバート・E・リー将軍北バージニア方面作戦第二次マナサス方面作戦)での攻勢と、プライスとヴァン・ドーンによるグラント対す作戦と期を同じくしていた。中央指示されたわけでは無かったが、南北戦争中でも最大南軍による同時攻勢だった。 一方ビューエル軍はチャタヌーガ向けてのその緩りとした行軍を放棄するしかなかった。南軍の動きに関する情報得てナッシュビル周辺でその軍を結集させることにした。スミスブラッグ両軍ケンタッキー州内にいるという報せは、その軍隊北軍確保するケンタッキー州ルイビルオハイオ州シンシナティの両都市の間に置いておく必要がある確信させた。9月7日ビューエルオハイオ軍ナッシュビル離れルイビルに向かうブラッグ軍との競争始めたブラッグ行軍中にマンフォードビルの戦いで北軍の砦を占領することでその目標から気を逸らされた。このとき、(ルイビルで)ビューエル軍との戦いに向かうか、リッチモンドレキシントン占領州内中央部支配得た後、シンシナティに向かうと脅威与えているスミス軍と合流するかを再び決断する必要があった。ブラッグスミス軍との合流選んだ。このことで、ビューエルルイビル到着することができ、そこで北軍集まって再編成し数千新兵補強することができた。ビューエルジョシュア・W・シル准将20,000名を付けてフランクフォート派遣しスミス注意逸らせ南軍2つ軍隊合流して自軍当たらないようにすることを期待した一方ブラッグは自隊を離れフランクフォートスミス会い10月4日行われた南軍知事リチャード・ホーズ就任宣誓式に出席することができた。就任宣誓式は近付きつつあるシル師団からの砲声中断されその夜予定されていた就任舞踏会中止された。

※この「1862年のケンタッキー方面作戦」の解説は、「ペリービルの戦い」の解説の一部です。
「1862年のケンタッキー方面作戦」を含む「ペリービルの戦い」の記事については、「ペリービルの戦い」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「1862年のケンタッキー方面作戦」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「1862年のケンタッキー方面作戦」の関連用語

1862年のケンタッキー方面作戦のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



1862年のケンタッキー方面作戦のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのペリービルの戦い (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS