1862年のケンタッキー方面作戦
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「ペリービルの戦い」の記事における「1862年のケンタッキー方面作戦」の解説
境界州であるケンタッキー州は南部州のテネシー州やバージニア州、および北部州のイリノイ州、インディアナ州やオハイオ州の間に位置して、その位置故にまたオハイオ川など重要な川の支配のために、両軍の欲しがるところとなった。1861年9月、ケンタッキー州生まれのエイブラハム・リンカーン大統領はその私信で「私はケンタッキー州を失うことが戦争全体を失うことに近いものになると思う」と書いていた。 戦争の初期に州内の対立する見解が支配を巡って競い合い、州議会は公式に中立を宣言した。9月3日、南軍のレオニダス・ポーク少将がミシシッピ川下流の支配のために重要と考えたケンタッキー州コロンバスを占領したのに対し、2日後には北軍のユリシーズ・グラント准将が、ケンタッキー州パデューカを占領したときに、ケンタッキー州の中立が初めて破られた。これ以降、両軍共にケンタッキー州の中立宣言を尊重することは無かった。ケンタッキー州は合衆国から脱退することは無かったが、1861年11月に暫定的な南軍側州都がボウリング・グリーンに置かれた。このことは南軍諸州によるケンタッキー州の認知となり、南軍旗にはケンタッキー州を表す星が1つ加えられた。 ケンタッキー州侵入の主導権は南軍東テネシー方面軍指揮官のエドマンド・カービー・スミス少将がまず取った。スミスはその作戦で、補給物資の調達、新兵の募集、テネシー州から北軍の注意を逸らすこと、およびケンタッキー州が南軍であることの主張ができると考えた。ケンタッキー州で新兵を募集したいという彼の熱望の幾らかは、ジョン・ハント・モーガン大佐による1862年7月に行われた騎兵の襲撃が成功して促進された。モーガンはビューエル軍の後方地帯深く分け入り、ビューエル軍やワシントンD.C.をかなり驚かせた。モーガンは襲撃中に歓喜で迎えられ支援されもし、さらに900名の部隊に300名のケンタッキー人を加えた。彼はスミスに自信ありげに「州全体が確保できる、25,000名や30,000名は直ぐに入隊するはずだ」と約束した。 ブラッグは様々な選択肢があり、ミシシッピ州コリンスを再奪取すること、あるいは中部テネシー州を通ってビューエル軍に対抗することなどが考えられた。スミスの増援要求も気に掛かっており、そのミシシッピ軍をスミス軍と合流させることにした。ミシシッピ州テューペロからアラバマ州モービルとモンゴメリーを経由してテネシー州チャタヌーガに至る複雑な鉄道経路で3万名の歩兵を移動させた。物資用荷馬車、騎兵、および砲兵はジョージア州ロームを通って陸路を移動させた。ブラッグは西部戦線で上級の将軍だったが、アメリカ連合国大統領ジェファーソン・デイヴィスは、スミスの東テネシー方面軍は独立の指揮系統とさせ、バージニア州リッチモンドの首都に直接報告させるようにしたので、このことが作戦の間のブラッグを難しくさせた。 スミスとブラッグは1862年7月31日にチャタヌーガで会見し、ケンタッキー方面作戦の作戦を練った。新しく創設されたケンタッキー軍にはブラッグ軍の2個旅団を加えて約21,000名とし、スミスの指揮で北のケンタッキー州に入り、カンバーランド渓谷の北軍守備隊に対処することとした(ブラッグ軍は長旅で疲れており直ぐに攻撃的な作戦を開始できなかった)。その後スミスはブラッグの所に戻って合流し、ビューエル軍の後に回り込んで、その供給線を守る戦いを強いる。グラントがビューエル軍を北ミシシッピから補強しようとした場合、スターリング・プライスとアール・ヴァン・ドーン各少将の小さな部隊がこれに対処する。ブラッグとスミスの軍が合流した場合、上官であるブラッグがスミスを直接指揮下に置く。ビューエル軍を破ることができると仮定して、ブラッグとスミスの軍隊はケンタッキー州に行軍し、地元の住民に歓迎される。北軍が残って居ればケンタッキー州で会戦を行って倒し、オハイオ川を南軍の前線にする、という作戦だった。 ケンタッキー方面作戦の作戦は大胆だが危険性もあり、当初は指揮系統が統一されていない複数の軍隊の完全な協働が必要だった。デイヴィス大統領からはケンタッキー州を奪れという圧力があったものの、ブラッグはほとんど直ぐに考え直し始めた。スミスはケンタッキー州で一人で業績を上げることが個人的な栄誉に繋がることを予測し、直ぐにブラッグとの同意事項を放棄した。スミスはその意図に合うようにブラッグを欺き、表向きカンバーランド渓谷への遠征のために2個旅団を要請した。8月9日、スミスはブラッグに、同意事項を破りつつあり、カンバーランド渓谷を迂回して、そこには北軍の守備兵を無効化する小さな牽制部隊を残し、北へ進むつもりだと報せた。ブラッグはスミスに同意事項に敬意を払わせることができず、その注意をナッシュビルの代わりにレキシントンに向かうことに集中させ、スミスにはビューエル軍がスミス軍を追跡して、ブラッグ軍とスミス軍が合流する前に個別撃破する可能性があることを忘れるなと注意した。 スミスは8月13日にノックスビルから21,000名の軍隊で北に進発し、ブラッグはスミスがレキシントンに到着する直前の8月27日にチャタヌーガを出た。この方面作戦の開始はロバート・E・リー将軍の北バージニア方面作戦(第二次マナサス方面作戦)での攻勢と、プライスとヴァン・ドーンによるグラントに対する作戦と期を同じくしていた。中央で指示されたわけでは無かったが、南北戦争の中でも最大の南軍による同時攻勢だった。 一方、ビューエル軍はチャタヌーガに向けてのその緩りとした行軍を放棄するしかなかった。南軍の動きに関する情報を得て、ナッシュビル周辺でその軍を結集させることにした。スミスとブラッグの両軍がケンタッキー州内にいるという報せは、その軍隊を北軍の確保するケンタッキー州ルイビルとオハイオ州シンシナティの両都市の間に置いておく必要があると確信させた。9月7日、ビューエルのオハイオ軍はナッシュビルを離れ、ルイビルに向かうブラッグ軍との競争を始めた。 ブラッグは行軍中にマンフォードビルの戦いで北軍の砦を占領することでその目標から気を逸らされた。このとき、(ルイビルで)ビューエル軍との戦いに向かうか、リッチモンドとレキシントンの占領で州内中央部の支配を得た後、シンシナティに向かうと脅威を与えているスミス軍と合流するかを再び決断する必要があった。ブラッグはスミス軍との合流を選んだ。このことで、ビューエルはルイビルに到着することができ、そこで北軍が集まって再編成し、数千の新兵で補強することができた。ビューエルはジョシュア・W・シル准将に20,000名を付けてフランクフォートに派遣し、スミスの注意を逸らせ、南軍の2つの軍隊が合流して自軍に当たらないようにすることを期待した。一方、ブラッグは自隊を離れフランクフォートでスミスに会い、10月4日に行われた南軍側知事リチャード・ホーズの就任宣誓式に出席することができた。就任宣誓式は近付きつつあるシルの師団からの砲声で中断され、その夜に予定されていた就任舞踏会は中止された。
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