1863:フランス軍による首都攻略
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「メキシコ出兵」の記事における「1863:フランス軍による首都攻略」の解説
フランス軍は1863年1月15日にベラクルスの砲撃を敢行した。3月16日にはフォレー将軍とフランス軍はプエブラ市の包囲を開始した。 4月30日に、フランス外国人部隊は伝説となるカマロンの戦いに臨むことになる。 ジャン・ダンジューと名乗る隻腕の大尉によって率いられた2人の士官と62人の兵士からなる小規模な部隊が、メキシコ人歩兵と騎兵隊3個大隊、約3千人によって攻撃を受けてアシェンダ・カマロンで包囲され、守勢を強いられた。ダンジューはアシエンダでの防衛で戦死し、最後はわずか3人のみが生き残るという壮絶な「栄光ある銃剣攻撃」であった。この日は'w:Camerone Day'といいフランス外国人部隊にとって最も重要な日である。 フランス軍のフランソワ・バセーヌ将軍は、プエブラ解放を試みたコモンフォルト将軍率いるメキシコ軍をプエブラ市の南のサン・ロレンソで破った。それから間もなく、5月17日プエブラ市はフランス軍に対し降伏した。5月31日にベニート・フアレス大統領は政府とともに同市から逃亡し北方の エル・オアソ・デ・ノルテに退却し、その後チワワに移った。1867年まで州の財産を取って、亡命政府はそこにおかれた。 バゼーヌ指揮下のフランス軍はメキシコシティに1863年7月7日に到達し、主要な軍はフォレー将軍に率いられて3日後に入城した。6月16日、アルモンテ将軍は上院(フォレーによって任命されていた)によってメキシコの暫定大統領に任命された。上院はその35人のメンバーと6月21日に出会った。7月10日に彼らはカトリック帝国を宣言した。ナポレオン3世の圧力を受けて、帝冠はマクシミリアンに差し出された。マクシミリアンは10月3日にこれを受諾し、上院により贈られたComisión Mexicanaを手にした。
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