1863年の作戦と当初の動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/04 10:12 UTC 版)
「ビックスバーグ方面作戦」の記事における「1863年の作戦と当初の動き」の解説
バイユー作戦の全てが失敗だったが、グラントはその確固たる決断力で知られており決して諦めなかった。最後の選択肢は大胆だったが危険を伴うものだった。ミシシッピ川西岸を下り、ビックスバーグの南で川を渉り、南と東からビックスバーグを攻撃するかバンクスの軍隊と合流し、ポートハドソンを占領し、続いて協働してビックスバーグを征服するというものだった。ポーターは砲台の下をかいくぐり十分な砲艦と輸送船をビックスバーグの南で確保する必要があった。一端下流に出てしまうと川の流れで速度が極端に遅くなるので、もう一度ビックスバーグの砲台の下を過ぎることはできないはずだった。 3月29日、マクラーナンドはその部隊で橋を建設し丸太道を造る作業に取り掛かった。彼等は進行するにつれて湿地を埋めて行き、4月17日までにミリケンズ・ベンドからビックスバーグより下流にあるルイジアナ州ハードタイムズの提案された渡河点までおよそ70マイル (110 km)の複雑な道を完成させた。 4月16日、月の無い晴れた夜に、ポーターは7隻の砲艦と3隻の物資を積み兵士は載せていない輸送船をビックスバーグの崖下に送った。音や灯りは極力出さないようにしていた。しかし準備の効果が無かった。南軍の歩哨が艦影を認め、崖上の砲台から大量の砲弾が発射された。視認性を高めるために川岸に炬火が灯された。北軍の砲艦が応射した。ポーターは南軍の大砲が仰角を抑えられないために主に北軍艦船の上の方に撃ってきていることを観察し、艦船を砲台の真下にあたる東岸に寄せさせた。非常に接近したので南軍の指揮官が命令を出す声も聞こえ、砲弾は頭の上を飛びすぎた。北軍戦隊はほとんど損傷無く生き残った。13名が負傷しただけで死者はいなかった。「ヘンリー・クレイ」号が航行不能になり水際で燃えた。4月22日、他の6隻の艦船が物資を積んで同じように通過した。1隻が通過できなかったが、戦死者は出なかった。乗組員は舟の残骸に乗ったまま下流に流された。 グラントの戦略の最後の段階は、北軍が使う渡河地点からペンバートンの注意を逸らすことだった。グラントは2通りの作戦を選んだ。ビックスバーグの北、スナイダーズ・ブラフに対するシャーマン隊の陽動行動(下記スナイダーズ・ブラフの戦いを参照)と、グリアソンの襲撃と呼ばれるベンジャミン・グリアソン大佐によるミシシッピ州中部の騎兵隊による大胆な襲撃だった。シャーマン隊の戦闘は引き分けに終わったが、グリアソンの襲撃は成功した。グリアソンはその部隊を追跡するかなりの数の南軍部隊を引き付けることができ、ペンバートンの防衛力は州内遠くまで拡散することになった(ペンバートンはナサニエル・バンクスの部隊がバトンルージュから川を遡りポートハドソンを脅かすことが差し迫っていることも心配していた)。
※この「1863年の作戦と当初の動き」の解説は、「ビックスバーグ方面作戦」の解説の一部です。
「1863年の作戦と当初の動き」を含む「ビックスバーグ方面作戦」の記事については、「ビックスバーグ方面作戦」の概要を参照ください。
- 1863年の作戦と当初の動きのページへのリンク