1863年-1865年
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「ラファイエット・マクローズ」の記事における「1863年-1865年」の解説
チャンセラーズヴィルの戦いでは、ロングストリート軍団の残りがサフォーク近くでの任務に派遣されている間、マクローズは直接リーの指揮下で戦った。1863年5月3日、リーはマクローズの師団をリー軍の背後に迫っている北軍ジョン・セジウィック少将の第6軍団を止めるために派遣した。マクローズはこれを成し遂げたが、リーはマクローズがより積極的に攻撃せずセジウィックの軍団に損害を与えられなかったうえに、ラッパハノック川を渡って逃亡させたことで不満だった。チャンセラーズヴィルでジャクソンが致命傷を負ったために、リーはその軍隊を再編し、ロングストリートは新しい2人の軍団長の1人にその部下達を推薦したが、リーがリチャード・イーウェルとA・P・ヒルを選んで失望させられた。マクローズは転属を希望したが容れられなかった。 ゲティスバーグの戦いの2日目である1863年7月2日、マクローズは第2師団を指揮しており、北軍左翼に対するロングストリートの大規模攻撃に参加した。ホイートフィールドやピーチオーチャードとして知られる地域で大きな成功を遂げた(兵力では損失が大きかった)が、軍隊全体としてはセメタリーリッジの北軍陣地から敵を追うことができなかった。翌日のピケットの突撃にはリングストリートが指揮を執ったが、マクローズ師団は参加しなかった マクローズはロングストリート軍団と共にテネシー州に向かいブラクストン・ブラッグ将軍のテネシー軍の援軍となった。マクローズ師団の到着が遅すぎてチカマウガの戦いや第三次チャタヌーガの戦いに間に合わなかった。1863年遅くのノックスビル方面作戦では、サンダース砦への攻撃に失敗したことで、ロングストリートが「指揮を執る将軍が採用することが適当と考えた努力と作戦における自信の欠如」と言ってマクローズを解任した。ロングストリートは12月30日にアメリカ連合国総務監察長官サミュエル・クーパーに宛てた手紙で、「義務の怠慢」に関する3つの罪を挙げたが、マクローズの「奉公が他の地位で政府にとって重要になるかもしれない」ので軍法会議は要求しなかった(同じ手紙で、その師団長から「無能」と告発されていたジェローム・B・ロバートソンに対しては軍法会議を要求した)。マクローズも12月30日にクーパーに宛てて手紙を書き、ロングストリートの告発に付いて論じ、汚名をすすぐために軍法会議を要求した。クーパーはロングストリートの手紙を陸軍長官ジェイムズ・セドンとアメリカ連合国大統領ジェファーソン・デイヴィスに回送し、ロングストリートは正式な軍法会議無しにその指揮下にある士官を解任も転任も認められていないという注釈を付けた。デイヴィスは2人の将軍の軍法会議を命じたが、マクローズの解任については後任を指名できるまで反対とした。 ロバートソンとマクローズの軍法会議は1864年2月12日にテネシー州モリスタウンで、サイモン・B・バックナー少将を裁判の議長として招集された。審理はロングストリートを含む証人達がスケジュール通りに出席できず、ある場合にはロングストリートが欠席の許可を認めたので進行が遅れた。クーパーの部署で5月5日に裁判の所見を出版し、義務の怠慢とされた2項目については無罪とし、第3項目の「マクローズの攻撃の細部でその成功のために基本的な手配ができなかった」ことで有罪とした。マクローズは階級と指揮権なしの60日間を宣告されたが、クーパーは裁判の手続きに重大欠陥があると言ってその判決と宣告を覆し、マクローズには師団と共にその任務に戻るよう命じた。しかし、5月18日、マクローズは陸軍局からサウスカロライナ、ジョージアおよびフロリダ方面郡のサバンナ防衛にその任務を変えられた。 マクローズは自分の運命について憤慨し、ロングストリートは失敗したノックスビル方面作戦のスケープゴートに自分を使ったと主張した。ロングストリートは終戦後かなり経ってから書いた自叙伝で、マクローズに対して告発したことを後悔していると表明し、「軽率な瞬間」に起こったことと表現した。やがて、2人の南軍将軍の間の敵意は消えたが、マクローズはロングストリートの行動を完全に許した訳ではなかった。 マクローズは第1軍団を離れ、リーがバージニアではその指揮を認めなかったので、サバンナに向かい、1864年遅くのウィリアム・シャーマンによる海への進軍に対してサバンナ防衛ができなかった。 1865年4月26日、マクローズはジョセフ・ジョンストン将軍の軍隊と共に降伏した。しかし、仮釈放の記録は残っていない。10月18日、アメリカ合衆国政府から恩赦を受けた。
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