1863年-1865年とは? わかりやすく解説

1863年-1865年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/23 04:56 UTC 版)

ラファイエット・マクローズ」の記事における「1863年-1865年」の解説

チャンセラーズヴィルの戦いでは、ロングストリート軍団残りサフォーク近くでの任務派遣されている間、マクローズは直接リー指揮下で戦った1863年5月3日リーはマクローズの師団リー軍の背後迫っている北軍ジョン・セジウィック少将第6軍団を止めるために派遣した。マクローズはこれを成し遂げたが、リーはマクローズがより積極的に攻撃せずセジウィック軍団損害与えられなかったうえに、ラッパハノック川を渡って逃亡させたことで不満だったチャンセラーズヴィルジャクソン致命傷負ったために、リーはその軍隊再編しロングストリート新し2人軍団長1人にその部下達推薦したが、リーリチャード・イーウェルA・P・ヒル選んで失望させられた。マクローズは転属希望したが容れられなかった。 ゲティスバーグの戦い2日目である1863年7月2日、マクローズは第2師団指揮しており、北軍左翼対すロングストリート大規模攻撃参加した。ホイートフィールドやピーチオーチャードとして知られる地域大きな成功遂げた兵力では損失大きかった)が、軍隊全体としてはセメタリーリッジの北軍陣地から敵を追うことができなかった。翌日ピケットの突撃にはリングストリートが指揮を執ったが、マクローズ師団参加しなかった マクローズはロングストリート軍団と共にテネシー州向かいブラクストン・ブラッグ将軍テネシー軍援軍となった。マクローズ師団到着が遅すぎてチカマウガの戦い第三次チャタヌーガの戦いに間に合わなかった。1863年遅くノックスビル方面作戦では、サンダース砦への攻撃失敗したことで、ロングストリートが「指揮執る将軍採用することが適当と考えた努力作戦における自信欠如と言ってマクローズを解任した。ロングストリート12月30日アメリカ連合国総務監察長官サミュエル・クーパー宛てた手紙で、「義務怠慢に関する3つの罪を挙げたが、マクローズの「奉公が他の地位政府にとって重要になるかもしれない」ので軍法会議要求しなかった(同じ手紙で、その師団長から「無能」と告発されていたジェローム・B・ロバートソンに対して軍法会議要求した)。マクローズも12月30日クーパー宛てて手紙書きロングストリート告発付いて論じ汚名をすすぐために軍法会議要求したクーパーロングストリートの手紙を陸軍長官ジェイムズ・セドンアメリカ連合国大統領ジェファーソン・デイヴィス回送し、ロングストリート正式な軍法会議無しにその指揮下にある士官解任転任認められていないという注釈付けたデイヴィス2人将軍軍法会議命じたが、マクローズの解任については後任指名できるまで反対とした。 ロバートソンとマクローズの軍法会議1864年2月12日テネシー州モリスタウンで、サイモン・B・バックナー少将裁判議長として招集された。審理ロングストリートを含む証人達がスケジュール通り出席できず、ある場合にはロングストリート欠席許可認めたので進行遅れたクーパー部署5月5日裁判所見出版し義務怠慢とされた2項目については無罪とし、第3項目の「マクローズの攻撃細部でその成功のために基本的な手配ができなかった」ことで有罪とした。マクローズは階級指揮権なしの60日間宣告されたが、クーパー裁判の手続きに重大欠陥があると言ってその判決宣告覆し、マクローズには師団と共にその任務に戻るよう命じた。しかし、5月18日、マクローズは陸軍局からサウスカロライナジョージアおよびフロリダ方面郡のサバンナ防衛にその任務変えられた。 マクローズは自分運命について憤慨しロングストリート失敗したノックスビル方面作戦スケープゴート自分使った主張したロングストリート終戦後かなり経ってから書いた自叙伝で、マクローズに対して告発したことを後悔していると表明し、「軽率な瞬間」に起こったことと表現した。やがて、2人南軍将軍の間の敵意消えたが、マクローズはロングストリート行動を完全に許した訳ではなかった。 マクローズは第1軍団離れリーバージニアではその指揮認めなかったので、サバンナ向かい1864年遅くウィリアム・シャーマンによる海への進軍に対してサバンナ防衛ができなかった。 1865年4月26日、マクローズはジョセフ・ジョンストン将軍軍隊と共に降伏した。しかし、仮釈放記録残っていない。10月18日アメリカ合衆国政府から恩赦受けた

※この「1863年-1865年」の解説は、「ラファイエット・マクローズ」の解説の一部です。
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