アトランタ大学
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「W・E・B・デュボイス」の記事における「アトランタ大学」の解説
1897年7月、デュボイスはフィラデルフィアを去りジョージア州の歴史的黒人大学たるアトランタ大学(英語版)で、歴史と経済の教授となった。彼の最初の重要な学術研究は著作『フィラデルフィアの黒人』(1899年)であり、彼が1896年8月1日から1897年12月31日にかけて実施したフィールドワークに基盤を置いたフィラデルフィアのアフリカ系アメリカ人の詳細かつ包括的な社会学的研究である。この研究はアフリカ系アメリカ人についての初めての科学的研究であり、黎明期のアメリカの科学的社会学に大きな貢献を残す、学術的なブレイクスルーであった。この研究においてデュボイスは黒人の下層階級を説明するために「the submerged tenth」というフレーズを作った。1903年の後半には社会的エリート階層を指す「The Talented Tenth(英語版)(才能ある十分の一)」という用語を広めた。デュボイスの用語は黒人と白人双方の国家的エリートが文化と進歩における成果において重要であるという彼の見解を反映したものである。デュボイスはこの時代において、最下層階級(the submerged tenth)の人々を「怠惰(lazy)」または「信用できない(unreliable)」という軽蔑を込めた表現で書いていたが、(他の著作家とは異なって)彼らの社会的問題の多くは奴隷制度の爪痕に起因するとしている。 予算的制約にも関わらずアトランタ大学における彼の成果は驚異的なものとなった。膨大な数の社会科学論文を作成し、毎年黒人問題に関するアトランタ会議(英語版)(Atlanta Conference of Negro Problems)を主宰した。デュボイスはまたアフリカ系アメリカ人の労働人口と文化の報告準備のためにアメリカ政府から助成金を受け取っていた。デュボイスの生徒たちは彼を素晴らしい人であるが、厳格で親しみづらい教師であると考えていた。
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