アトランタ方面作戦の開始
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「ケネソー山の戦い」の記事における「アトランタ方面作戦の開始」の解説
シャーマンのアトランタ方面作戦は、その3軍がチャタヌーガ近郷を出発した1864年5月7日に始まった。ロッキーフェイスリッジと名付けられた長く高い山に沿ったジョンストンの陣地に対して示威攻撃を掛け、一方、マクファーソンのテネシー軍は密かにジョンストン軍の左翼を回り込んでレサカの町とジョンストン軍の供給線であるウェスタン・アンド・アトランティック鉄道の方向に進んだ。シャーマンにとって不幸だったのは、マクファーソン軍がレサカの郊外で塹壕に入った小さな南軍部隊と遭遇し、慎重にスネイククリークギャップまで引いたので、南軍を罠に掛ける機会を失ってしまったことだった。シャーマンがその全軍をレサカの方向に向けると、ジョンストンはそこで陣を張るために後退した。5月14日から15のレサカの戦いで全面的な対決が起きたが決着は付かず、シャーマンはウースタナラー川を渡って再度ジョンストン軍の側面に回った。ジョンストン軍が再度後退し、5月17日にはアデアーズビルで小競り合いがあり、5月18日から19日にはジョンストン軍のカスビル前線でより大きな戦闘があった。ジョンストンはシャーマン軍が多くのルートを近づいて来るのでその一部分を破ろうと作戦を立てたが、フッドが性格に似あわず慎重であり、包囲されるのを恐れ、命令されたとおり攻撃できなかった。ジョンストンはフッドとポークに促されて再度の後退を命令し、今度はエトワ川を渡った。 ジョンストン軍はカーターズビルの南にあるアラトゥーナ峠で防御的陣地を敷いたが、シャーマンは再度ジョンストン軍の左翼に回り、一時的に供給線である鉄道を放棄してダラスの町に進んだ。ジョンストンはその強固な防衛陣地からの移動を強いられ、開けた戦場でシャーマン軍と対することになった。5月25日のニューホープ教会の戦い、5月27日のピケッツミルの戦い、5月28日のダラスの戦いと激しい戦いが続いたが、決着は付かなかった。6月1日までに激しい雨が道路を泥沼に変えており、シャーマンは補給のために鉄道のある所まで戻ることを強いられた。ジョンストンの新しい前線(ブラッシー山戦線と呼ばれた)は6月4日までにマリエッタの北西に構築され、ロスト山、パイン山、ブッシュ山に沿っていた。6月14日、雨が11日間降り続いた後、シャーマンは再度動き出す準備が出来ていた。自ら敵軍を偵察したときに、パイン山で南軍の士官集団を視認しており、配下の砲兵大隊の1つに砲撃を命じた。このとき、「戦う主教」とも呼ばれたレオニダス・ポーク中将が戦死し、ジョンストンはパイン山から部隊を撤退させ、ケネソー山からリトルケネソー山までアーチ状をした防衛線に新しい陣地を構築した。6月22日、フッドの軍団がリトルケネソー山の南にあるピーター・コルブの農園で攻撃を試みたが失敗した(コルブ農園の戦い)。ウィリアム・W・ローリング少将がポークの軍団を引き継いだ。 シャーマンは難しい位置にいた。アトランタの北15マイル (24 km) で立ち往生していた。道路を通れないためにジョンストン軍の側面に回り込むという戦略を続けられず、補給線である鉄道は高さ691フィート (211 m) のケネソー山にあるジョンストン軍陣地に見下ろされていた。ワシントンには「邦全体が1つの広大な砦であり、ジョンストンは少なくとも50マイル (80 km) の連結された塹壕に逆茂木と完成した砲台を備えている。我々は日々地歩を確保し、常に戦っている...今や我が前線は近距離にあり、かなりの量の大砲との戦いの絶え間がない。」と報告した。シャーマンはケネソー山のジョンストン軍陣地を攻撃することでこの手詰まりを打開することに決めた。6月24日に、27日午前8時から攻撃を始めるという命令を出した。
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