ウィルバーフォース大学とフィラデルフィア
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「W・E・B・デュボイス」の記事における「ウィルバーフォース大学とフィラデルフィア」の解説
私と他の世界の間にはまだ問いかけられていない問題があります。...それはどのような問題だと感じていますか?...彼は常に自己の中に二つの存在を見ます。-即ちアメリカ人と黒人(ニグロ)です。2つの魂、2つの思想、2つの調和せざる努力、1つの黒い肉体(dark body)に2つの相容れない理想があり、彼の頑健さだけがそれをバラバラに引き裂いてしまわないよう保っている。...彼はアメリカをアフリカ化しようとはしないでしょう。アメリカの持っているものはあまりに多く、世界とアフリカに教えきれるものではないからです。黒人の魂を漂白しようともしないでしょう。なぜなら、彼は、黒人の知の中に世界に対する予言が流れていることを知っているからです。彼は単に一人の人間が仲間に冒涜されたり唾を吐きかけられることなく、面前で機会の扉をほとんど閉ざされることなく、黒人でありアメリカ人であることができるようにとを望んでいるのだけなのです —Du Bois, "Strivings of the Negro People", 1897 1894年の夏、デュボイスは名誉あるタスキーギ研究所(英語版)からのものを含むいくつかの仕事の求人を受け、その中からオハイオ州のウィルバーフォース大学(英語版)での教職を受けた。ウィルバーフォース大学においてデュボイスはアレクサンダー・クルメル(英語版)から強い影響を受けた。彼は理念と倫理(ideas and morals)が社会の変革に必要なツールであると考えていた。同時に、デュボイスはウィルバーフォースで教え子の1人だったニナ・ゴマー(Nina Gomer)と1896年5月12日に結婚した。 ウィルバーフォース大学での2年間の後、デュボイスはペンシルベニア大学から1896年夏の「assistant in sociology」として1年間の研究職に就くことを受諾した。フィラデルフィアのアフリカ系アメリカ人の地区で、社会学のフィールド調査を実施し、その成果は彼の記念碑的研究業績である1899年出版の『フィラデルフィアの黒人(英語版)(The Philadelphia Negro)』の基礎を作った。同時に彼はアトランタ大学(英語版)で教鞭を取った。これはアメリカ合衆国における最初の黒人コミュニティのケーススタディであった。1890年代までに、フィラデルフィアの黒人地区は犯罪・貧困・死亡率において不名誉な評判を得ていた。デュボイスの本は実証的根拠によってこのステレオタイプを覆し、人種隔離と黒人の生活と評判に対するその悪影響への取り組みを明確化するものであった。この結果からデュボイスは人種統合はアメリカの都市における民主的平等の鍵となると認識するようになった。『フィラデルフィアの黒人』で彼が採用した手法(すなわち、社会的指標について記述し、これを近隣地域の地図上に落とすこと)は、社会学のシカゴ学派の研究の先駆を成すものであった。 1897年にAmerican Negro Academy(英語版)(ANA)に参加した際、デュボイスは黒人アメリカ人を白人社会へ統合するというフレデリック・ダグラスの請願(plea)を拒否する論文を発表した。その中で彼は「我々は黒人(Negrous)であり、創造以来眠りの中にあった広大なる歴史的人種の一員である。しかし、アフリカの祖国の暗い森の中で目覚めかけている」と書いている。月刊誌『The Atlantic』の1897年8月号において、デュボイスは「黒人たちの努力(Strivings of the Negro People)」を発表した。これは一般大衆を対象とした彼の初めての著作であり、アフリカ系アメリカ人は自身のアフリカの遺産を抱きつつアメリカ社会に貢献すべきであるという彼のテーゼを詳述した。
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