1942-43
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/11 12:43 UTC 版)
1942年7月、第2SS装甲軍団はSS装甲軍団として第2SS装甲師団 ダス・ライヒと第9SS装甲師団 ホーエンシュタウフェンから編成された。8月、部隊はアントン作戦のためにフランス北部へと移動した。1943年の2月上旬、指揮官はパウル・ハウサー親衛隊大将となり、南方軍集団の傘下として第三次ハリコフ攻防戦に従事した。 6月、部隊は第1SS装甲軍団が編成された関係で第2SS装甲軍団に改称された。7月、部隊は傘下の3つの装甲師団とともにツィタデレ作戦において、南方の先鋒を務める第4装甲軍に所属して戦った。プロホロフカの戦いにも従軍したが、作戦自体は失敗に終わった。8月、第2SS装甲師団と第3SS装甲師団は東部戦線に残り、ハリコフ攻防戦に従事した。部隊は唯一の傘下師団である第1SS装甲師団 ライプシュタンダーテ・SS・アドルフ・ヒトラーとともにイタリア戦線に送られ、そこでイタリア部隊の武装解除を行った。 9月20日から11月20日までの間、部隊はバルカン半島において、F軍集団のためにパルチザンの制圧に従事していた。これらの活動によって部隊は936人の人員を失った。クロアチア人の作家によると、イストリア半島において2000人のパルチザンと2000人の政治家がドイツ軍によって殺害し、それに加えて1200人が逮捕され、内400人が強制収容所に送られたと言われているIstrapedia (Croat.)。11月、部隊はイストリア半島、スロベニアならびにイタリア北部に残された軍団とともに、ソビエト軍に対峙するべく東部戦線へと送られた。
※この「1942-43」の解説は、「第2SS装甲軍団」の解説の一部です。
「1942-43」を含む「第2SS装甲軍団」の記事については、「第2SS装甲軍団」の概要を参照ください。
- 1942-43のページへのリンク