1942前半
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「サンフランシスコ (重巡洋艦)」の記事における「1942前半」の解説
1942年(昭和17年)1月8日、サンフランシスコは空母エンタープライズ (USS Enterprise, CV-6) 基幹の第8任務部隊(ウィリアム・ハルゼー中将)に加わり、空母ヨークタウン (USS Yorktown, CV-5) 基幹の第17任務部隊(フレッチャー少将)とともにトゥトゥイラ島への輸送任務についた。1月18日にトゥトゥイラ島に到着後、サンフランシスコはマーシャル諸島およびギルバート諸島の日本軍を攻撃する第8任務部隊および第17任務部隊と別れ、輸送船団の護衛任務を続けた。 2月8日、サンフランシスコはトゥトゥイラ島を出港し、2日後の2月10日に空母レキシントン (USS Lexington, CV-2) 基幹の第11任務部隊(ウィルソン・ブラウン中将)に加わり、第6巡洋戦隊に合流した。第11任務部隊はソロモン諸島東北海域からラバウルを攻撃すべく進撃した。しかし、2月20日に第11任務部隊はブーゲンビル島近海で日本の九七式飛行艇に発見され、ラバウル航空隊の一式陸上攻撃機17機が飛来してきた。第11任務部隊は2度にわたる攻撃を受けたが、一式陸攻17機のうち13機を撃墜して2機を大破させ攻撃を挫折させた(ニューギニア沖海戦)。しかし、第11任務部隊は高速航行を続けた結果、燃料事情が心細くなり、ラバウル空襲は断念せざるを得なかった。 その後の数日間、第11任務部隊は南太平洋で行動し、次いで第17任務部隊とともに日本軍に痛打を浴びせるためニューギニア方面に向かった。その途中の3月7日、サンフランシスコの艦載機1機がなくなっていることが分かり、捜索したもののこの時点では発見できなかった。3月9日から10日にかけての夜、第11任務部隊と第17任務部隊はパプア湾に入った。夜明けとともに艦載機を発進させ、パプアニューギニアのオーエンスタンレー山脈を越えてラエとサラモアの日本軍上陸部隊(第六水雷戦隊)に奇襲を仕掛けた(ラエ・サラモアへの空襲)。翌日、ミネアポリス (USS Minneapolis, CA-36) が行方不明になっていたサンフランシスコの艦載機を発見し、サンフランシスコのもとに送り届けられた。3月26日、サンフランシスコは真珠湾に帰投し、約1ヵ月後の4月22日には4093船団を護衛してサンフランシスコに向かった。5月末に真珠湾に戻ったサンフランシスコは第37歩兵師団(英語版)を輸送するPW2076船団を護衛し、スバを経由してオーストラリアに到着した。サンフランシスコと護衛艦艇はオークランドに寄港した後ハワイに向かい、6月29日の真珠湾に帰投した。しばらくして、サンフランシスコは駆逐艦ラフィー (USS Laffey, DD-459) およびバラード (USS Ballard, DD-267) とともに4120船団を護衛してフィジーに向かい、同地でソロモン諸島に進攻する部隊と合流した。
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